薬学博士 佐藤潤平②自伝
ご自分の言葉で書いてある自伝がとても面白いので抜粋します。
映画のシーンのような光景もあります。📽️🎞️✨🎥❇️
牧野富太郎にも並ぶ植物学者であり、薬学者だと思います。
植物とともに四十年
-------引き揚げまでの吾が半生涯--------
”幼時より草木に親しみ農学校をめざす”
私は秋田の片田舎の百姓の一人息子に生まれた。(1896年出世)
私は幼いときから草木をいじることが好きで、屋敷の一隅に草木の苗を植えて楽しんだ。小学校を出るころは立派な接木師であった。だから、そのころすでに、梨の接木に徒長枝を接穂にすればよく伸びるが実が成らないとか、茄子の花と親の意見は一つの無駄もないということわざがあるが、茄子の花でも成らぬ花もあり、成らぬ花は花の柄に節があることを知っていた。村の農産品評会に茄子を出品して一等賞を得たこともあった。
小学校を卒業すると農学校へ行くつもりでいた。ところが、これには親たちは絶対反対で、師範学校へ入れようとした。その理由は、私が二十歳ごろになれば必ず戦争が起こるという。そのときに一人息子が兵隊にとられて戦士でもしたら大変だというにある。つまり兵役忌避である。
結局、親の意見にしたがって、師範学校入学準備のために準教員養成所に入所した。ここで一年間勉強して試験を受けたが見事に落第した。私は内心大いに喜んで、こんどこそ農学校に行けるだろうと思っていたら、とんでもない。町長と父との話し合いができていたらしく、母校の小学校の代用教員に。月給料六円也。父は早速洋服を注文してくれた。生まれて初めて洋服を着るのがうれしくて代用教員をした。
そのとき学校の書棚で植物図鑑を見つけて非常に喜び、これで植物の名前が覚えられると思って、わかりもせぬのに毎日図鑑をひっくりかえして見た。
”師範学校に入学したが植物採集に夢中”
そのうち学校の先生も面白くなり、本気になって師範学校に入る気になり、1913年四月秋田師範学校へ入学した。夏休みに父から四冊の植物、図鑑などを買ってもらって一生懸命になって植物採集をした。
この夏休みに200ばかりの標本をつくり、約125種に自分で名前をつけて学校に帰った。残りの不明な75種の植物は、植物の先生に鑑定をお願いしたところ、先生は私の分からないうちの15種ばかりしか鑑定できず、以上の200種の標本を、夏休みの作品展覧会へ出品したら一等賞を得た。それからというものは、私は日曜日はむろん、放課後も毎日のように植物採集に出かけた。
”ヒガンバナの中毒”
ある秋の彼岸ごろに、植物採集に行ったら、ヒガンバナが満開だったので、それを採集し、手に持って帰途につき、途中、お菓子屋に立ち寄ってお菓子を食べようとした途端に、ヒガンバナの柄が折れて、その汁が指についたが、そのままお菓子を食べて寄宿舎へ帰った。そうしたら夕食後、カゼ気味となり、また顎下が硬直して来たので、カゼだと思って床についた。翌朝には、脇下やそのようなところが赤く腫れているが痛くない。午前11時ごろになったら股間の一物が腫れてきたので、これは一大事だと思って病院にかけつけたら、これは中毒だと言う。すなわち、ヒガンバナの中毒なのであるが、大事に至らずに治った。
1915年三月、学校では一般学生から事業案を募集した。私は寄宿舎の前に花壇をつくることを提案。採用になり、全校の学生が総出で鉄道の古い枕木を運んで花壇を24個作った。その管理を私が命ぜられた。その年は花壇が非常によくできて、皆に誉められた。
”成績は一番ビリで植物・園芸は特賞”
こうなってくると、先生たちも私を大目に見てくれるようになった。私も他の学科など顧みず、植物の採集や園芸方面を勉強した。そうでなくても、ほかの学科など勉強せず、いつも成績はビリで、ビリになるのもなかなか骨が折れるものだと冗談を言っていた。
それからの私は全く無軌道の状態で研究をしだした。校長室に呼ばれた。「お前は植物ばかりやっていて、ほかの学科は何もやらんじゃないか。学校を出てからどうするつもりか」
そこで私は、このさいはっきり、今後進むべき道を話した方がよいと思ったから、私は、農業か植物を専攻するために、上級学校へ行く考えであるときっぱり述べた。それからいろいろと校長と話し合った結果、校長は「よし、それでは一つ君は思う存分植物を研究して見なさい」という。いやはや、そのときの私のうれしかったこと、これは筆舌をもって現すことができない。
”植物・餅・佐藤”
植物のほかにもう一つ好きなものは餅だった。一週間餅を食べないとだめで、実家から毎週一回餅を届けてもらった、それで学校では佐藤といえば植物と餅、植物がでれば佐藤と餅と連想されたものらしい。その証拠に、私が31年ぶりで満州から日本へ帰り、秋田へ行ったら、どこへ行っても佐藤が来たと言うわけで餅の御馳走攻めにあって少々弱った。
私は成績が悪く進級問題で職員会議までかかったが、佐藤は特別とのことで、落第もせずに無事、4年の学業を終えて、ビリで辛うじて卒業した。
小学校の教諭になっても農業指導と植物研究
赴任して高等1,2年(中1,2年)を受け持った。乾燥した畑の土壌改良を生徒に農業と植物の特別授業をしながら行った。生徒たちには路傍の植物を50種以上覚えさせた。校長も私とともに朝夕登校、下校をともにし、路傍の植物を勉強した。
一年くらいたつと7~80種類をおぼえた生徒もいて畑の作物も大収穫となった。
理科の研究授業は尋常6年(小学6年生)とタンポポ研究をした。生徒たちみずから摘んできたタンポポや雑草が机の上に乗っていた。他の先生たちが驚いて、どうして生徒たちがあんなに植物の名前を知っているのかと質問され、この授業は中学の授業であると評価された。
「秋田県植物誌」で名を挙げ逆に郷里へ呼び戻される
処女出版で自ら慰める
24才のとき初めて『東北実用植物の新研究』という430頁の本を出版した。私はその頃、公私ともに悶々としていたのでこの一書を公にすることは慰めでもあった。
大館中学から旅順高女へ渡満の夢とチャンス到来
大館中学校へ博物の教師として赴任。私は解放されたような気がし、じぶんの進む道が開けた気がした。東京へ牧野富太郎の話を聞きにも行った。当時薬用植物を研究中で、漢薬の原植物を究明するには支那に渡って研究しなければならない。そこへ中国旅順の高校へ教員採用の話。
1922年12月23日はじめてアジア大陸満州へ足跡を出した。すぐに漢薬店をのぞいて見たが、原植物などさっぱりわからない。つまり、支那の植物がわからなければ、漢薬の原植物は解決できないということを痛感した。
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🌺いよいよ31年間の中国植物研究および農業研究がはじまります
以下は中国での出来事です。
”理科学習帳の誤りを指導して認められる”
1923年ゲンカイツツジの件
”生活費まで書物に投じて妻子を困らせた私”
”南満州教育会から満蒙植物奨励金を受ける”
”重態の子を医師に任せて初の大興安嶺採集行き”
1926年行きたくてたまらなかった大興安嶺に採集旅行
”珍草珍木に心を奪われ”
見るもの聞くものすべてが珍草珍木である。
”雄大なお花畠に驚嘆”
大興安嶺のお花畑の雄大なのには全く驚いた。日本の高山のお花畑なんてものは、あまりにも規模が小さくて比較にならない。私はあれもこれもと、たくさん珍草珍木を採集して帰途についた。だが途中子供のことが気になり眠ることができない。旅順についたら、駅に病気が治って母に抱かれて出迎えていた。本当にうれしかった。
”通遼の砂丘地帯への採集行きとシナ宿での盗難”
帰ってから2~3日して通遼の砂丘地帯に採集へ。日本人がいない宿でこそ泥に合う。満鉄の会社があるというのでそこに泊まって採集し、エフェドリンの原料である麻黄を採集する。
夏休みも終わり『満蒙の野外花卉』を出版した。1927年8月であった。
”旅順植物園長となり満蒙植物研究に縦横の活躍”
1928年3月に教職を辞め旅順植物園長と、満鉄の嘱託を兼務し満蒙植物を研究する。蒙古地帯、大興安嶺、吉林方面の森林地帯など相当な危険を冒して採集した。蒙古旅行で広漠たるシャクヤクの原があって全く驚いた。見たことのない人は信じられないかもしれない。
”満州国奉3天省遼陽県指導農場長として”
1938年3月遼陽に赴任。引っ越し荷物は植物標本、文献などを合わせて2貨車もあった。研究所も新設され農事試験場の設置はこれが満州国の初めてであった。
”農村の改革と農民指導の成果”
試験場新設の当時は、農民は試験機関は了解できず、いろいろなものの普及に困ったが、一部落に集中改良を加え、各村に普及するようにしたら、農場の仕事が農民にもわかってきて、競って農場を中心に動くようになってきた。農民からの贈り物には困った。一村元宵餅十斤と決め、農閑期には農村を廻って農民の声を聞きできることはその場で解決してきた。
”敗戦の混乱の中で農民の支持を受けて”
1945年8月15日が来た。日本軍への掠奪が行われた。農民たちは率先して私の大切な資料を掠奪されないよう守り、8月24日早朝には、45台の馬車が農場の前にずらりと並んだ。そして24,25日の二日間で資料一つも紛失することなく倉庫へ運んでくれたのだった。
”奉天の東北大学教授として中国に留用”
”中共政府になって東北薬学院で最高の待遇”
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佐藤潤平をネットで検索すると二つ、PDFの資料がありました。
佐 藤 潤 平 氏 の 伝
北 村 四 郎 Siro KITAMuRA :
1970年4月、佐 藤 潤 平 氏 が な くな っ た 。 本 年 1 月 ,佐 藤 潤 平氏 に 多 彩 な 植 物遍 歴 を 主 と し て 自伝 を 書 い て ほ し い と お 願 した と こ ろ ,夫 人 と し 子 さ ん か ら病 気 臥床 中で 執 筆で きな い の で ,履 歴 書 と 「グ リー ン エ イ ジ」 昭 和30年 9 月 号所 載 の 「植物 と と もに 40年 」 24〜31頁 を 送 る の で , 適 当 に 処 理 し て ほ し い と の 返 事 が き た 。
そ し て 1 ケ 月 た た ぬ う ち に ,訃 報 を 受 け と っ た 。
就 職
大 正 6年 4 月。 秋 田県 南 秋 田 郡 飯 田 川 小 学 校訓導 と な る 。
大 正 7 年 の 秋 田 県 教 育 展覧会 に 秋 田 県 植 物 誌 と 題 し400字詰 850枚 ほ ど の 原 稿 を 出品 し て 一等 賞 を得 た 。 こ の た め 母 校 か ら望み ま れ て
大 正 8 年 4 月 , 母 校 金 足 東小 学 校 に 転 勤 し た 。
大 正 8 年 ,東北 実 用 植 物 の 新 研 究 と題 し, 菊 版 430 頁 を 出 版 し た 。 こ れ は 糊 と 鋏 と で 作 っ た 著作 に 過 ぎ な い (佐 藤 氏 に よ る)
大 正 9 年 ,秋 田 県 立 大館 中学 校 嘱 託 と な る。同 中学 で は 博物 を講 義 した が , 薬 用 植 物 に 興 味 を も っ た 。 時 ど き 東 京 に 出 て ,白井 光 太 郎 博 士 や 牧 野 富 太 郎 博士 の 話 を 聞 き ,漢 薬 の 原 植 物 を 研 究 す る に は 中国 に 渡 り,資 料 を 得 て 日本 で 研 究 し た い と考 え た 。
満 州 に い た 秋 田 師 範 の 先 輩 の 世話 で ,旅 順 高 等女 学 校に 行 くこ と に な っ た 。
大 正 10年 12月23 日 旅 順高 等 女 学校 教諭 と な る (関 東 庁)。 旅 順 時 代 旅 順 で は ひ ま さ え あ れ ば 植 物 を 採 集 し た 。 然 し , 参 考 書 は な く, 指 導者 は な く, 金 もな か っ た 。 在 満 中等 学校 の 博 物 の 先 生 た ち と は か っ て , 満 鉄か ら矢 部 吉禎 博 士 を 招へ い し て も ら っ て ,13年 夏 に 講 習 会 を 開 い た 。 こ の と き矢部 博 士 に 認 め られ ,満 鉄学 務 課 長保 保 隆矣 氏 の はか ら い で ,
大 正 13年 8 月 ,満 鉄立 教 育 専 門 学 校 の 講 師 を 兼務 す る こ と に な っ た 。 そ れ で 満 鉄全 線 の 無 賃 乗車 券 を も ら っ た の で ,採 集旅 行 に 好都 合 で あ っ た 。
大 正 14年 関 東 庁 博物館 嘱託 と な る 。 旅 順 高 等女 学 校 教諭 時 代 は 採 集 に 専 念 し た の で ,学校 当 局 に は 迷 惑 を か け た 。 ま た 給 料 は 主 と して 参 考 書を 買 っ た の で ,家 族 に も迷 惑 を か け た 。 関 東 庁 視学 香 川 義憲氏 と知 り合 い ,香 川 氏 の 紹 介 で ,同 学務 課 長 藤 田 偵 治 郎 氏 の 知 る と こ ろ と な り ,南満 州 教育 会 か ら満 蒙 植物 研 究 奨 励 金 と し て 年 に 500円 を 給 さ れ る こ と に な っ た 。
大 正 14年 の 夏 休み に ,安 奉 線沿 線 で ,杵 淵弥 太 郎氏 の は か らい で ,植物 採 集会 が 行 わ れた。
大正 15年 の 夏 休 に は 大 興 安 嶺 に 採 集 し た .途 中長 春 ・吉林 間 の 土 們嶺 で 採 集 中,長 女 の 病 気 の た め 旅 順 に 帰 り ,再 び大 興 安嶺 に 向 う。
ハ イ ラ ル で 下 車 , ロ シ ア 人 の 宿 屋 に 泊 る 。 ハ イ ラ ル 郊 外 は ,シ ベ リ ア ヒ ナ ゲ シ , ホ ソ バ マ ッ ム シ ソ ウ の 花 盛 りで あ っ た 。モ ウ コ ア カ マ ツ 林 に は 心 を う ば わ れ た 。
翌 朝 コ ロ ン バ イ ル の 草 原 で 知 り あ っ た 人 か ら ハ イ ラル の 日本人 を 紹 介 さ れ た 。 本人 を 母 と し 中 国 人 を 父 と す る 矢 野 青年 に ,大 興 安 嶺 に 行 き た い と云 っ た ら, ブ ハ トの 中国 人 の 妻 と な っ て い る原 田 さ ん に 紹介 状 を書 い て くれ た 。ブ ハ トに 下 車 し て 原 田 さ ん の 家 に 厄介 とな っ て 大 興 安嶺 で 採 集 し た 。 大 興 安嶺 の お 花 帛の 雄 大 な の に 驚 い た 。 ゆ る い 傾 斜 面 に は ,ヤ ナ ギ ラ ン の 大 群 落 ,オ オ バ ナ イ チ ゲ ,ハ ク サ ン イ チ ゲ , エ ゾ ヤ マ ブキ シ ョ ウ マ な ど の 群 落 が 散在 し, 湿 地 に は ボ タ ン キ ン バ イ ,ナ ガ ボ ノ ワ レ モ コ ウ , ワ タ ス ゲな ど の 群 落 が あ っ た 。 多 く の 植 物 を採 集 し て 旅順 に 帰 っ た 。採 集 物 を 整 理 し ,夫 人 に 標 本整 作を 依 頼 し ,砂丘 地 帯 に 採 集 す る た め通 遼 に 出か け た 。通遼 は 砂 地 で 種 類 は 少 な い が , ヒ エ ン ソ ウ 属 の もの が 美 し く壮 大 な 砂 丘 植 物 ウ ラ ジ ロ オ オ ヒ レ ア ザ ミを 見 て 喜 ん だ 。麻 黄 も採集 し た 。こ れ らの 山 草を 紹介 し 園 芸 化 す る た め 「満 蒙 の 野 外 花 卉」 と題 す る 書 を
昭 和 2 (1927)年 8 月 に 出版 した 。
昭 和 3 年 3 月31 日旅 順 高 等 女学 校 教諭 退 職。昭 和 3 年 3 月31 日 旅 順 植 物 園 園 長 と な る (月 給 175円 )。 同 満 鉄 農 務課 嘱託 と な る (年 3,OOO円)。満 鉄 に 在満 日 本人 の 学 資 ま た は 研究 費 を支 給す る 奨 学 資金 財 団 が 設 け ら れ た 。満 鉄 学 務 課 長 保 保 隆 矣 氏 か ら研 究 計 画 を だ す よ うす す め られ た 。
昭 和 2 年 12月25 日 に こ れ が 認 め ら れ た 。そ し て 終 戦 の 年 まで 支給 さ れ た 。 ま た 関 東 庁 は 生 活 費 を だ し満 蒙植 物 を 研 究 させ るた め , 旅順 植 物 園 園 長 と した 。 旅 順 植物 園 園 長 時 代 の 著 作 に ,満 蒙 植 物 写真集が あ る。
昭 和 3 年 7 月か ら,月20枚ず つ ,3 ケ 年 間 続 け た 。こ の 写 真 集 に は 4 〜 6 頁の 通 信 文 が あ り,そ れ に 鳩 記 と題 し , 採 集 旅 行記 を 佐 藤 潤平 氏 が 書 い て い る。 (北 村 は 京都 大学 学生 の と き こ れ の 購 読 者 で あ っ た の で , 昭 和 5 年 7 月 末 大 連 に 植 物 採 集 した と き , 嶋 田 道 隆氏 を 訪 ね , 佐 藤 潤平 氏 に 紹 介 して も ら っ た 。 旅順 赤 羽 町 の 研 究室 に は 多 くの 植 物書 が あ っ た の で 驚い た 。 GMELIN , Fl。ra sibirica が あ っ た 。 欠 本 で は あ っ た が , 佐 藤氏 は そ れ の Cirsiurn acaule の 図 を示 し た 。 と し子夫 人 は病 気 で 入 院 中 と の こ と で あ っ た が ,ホーコーロー の 御 馳 走 に な り,キ ク 科 の 標本 の 同定 を 依 頼 され た 。 そ れ 以後40年学 縁 が 続 い た )。満蒙 植 物 写真 集 に は 大 正 13年 に 撮 影 し た も の が あ る。
昭 和 13年 3 月31 日 満 州 国 遼 陽県 指導 農 場場 長 (月給 450円
満 州 国遼 陽県 副県 長 甲斐 政 治 氏 の 招 き に よ り遼 陽県 に 勤 務 した 。農 場 は 遼 陽 か ら約 6 キ ロ の 地 に 新 設 さ れ ,画 家 杉野 光 孝 氏 も勤 務 した 。 旅 順 か ら の 引 越 し に は 植 物標 本 と文 献 とで 2 貨 車 あ っ た 。 こ の と き , そ れ ま で に 書 い た 満 蒙 植 物 図 鑑 (200枚 の 写 真 入 り)の 原 稿 を失 っ た 。 こ こ で 終戦 の 日 ま で 勤 め る こ と に な っ た 。 (北 村 は 昭 和 14年 9 月 8 日 か ら遼 陽 佐 藤氏 宅 (遼 陽 市 本 町 83) に 9 月 24 日 ま で 滞 在 し た 。 当 時 佐藤 氏 と 夫人 と し子 さ ん (明治 34年 11月 11 日 生 ) と長 女 ,長 男 ,次 女 紀 子 さ ん (昭 和 2 年 11月 18 日 生 ) の 5 人 家 族 で あ っ た 。 佐 藤 氏 は 愛 妻 家 で あ る こ と を 自称 して い た 。 植 物 学 に 関す る もの 以 外 に , い ろ い ろ な 本 を 自宅 に もっ て い た 。 農 場 に 立 派 な 標本 室 が あ り,大学 で 用 い る木 製 ニ ス 塗 りの 標 本 箱 が 多 数 あ り ,私 は 5 万点 位 は あ ろ う と 思 っ た 。 ほ と ん ど満州 の 植 物 で あ っ た が , ロ シ ア 人 か ら買 っ た 沿 海州 の 標 本 も あ っ た 。 キ ク 科 とキ キ ョ ウ 科 の 標 本 を 同 定 し ,重 復 品は す べ て 京 都 大学 に 寄 贈 し て も ら っ た 。そ れ は 昭 和 14 年 末 に 無 事 到 着 し,京 大 に 保 存 さ れ て い る。佐 藤氏 は 狩猟 が 好 きで あ っ た 。 9 月 10 日 佐 藤 氏 は 峨 眉 荘 に 採集 に つ れ て い っ て くれ た 。 植 物 採 集 と鉄 砲 打 ち と は 奇 妙 な 組 み あ わ せ で ,犬 は が さ が さ走 りま わ る し ,私 は 気 が 落 ち つ か な い 。そ れ で も76採 集で き後 の 研 究 に 大 い に 役 立 っ た 。 佐藤 氏 は キ ジ 3 羽 を 打 ち 落 し た。そ の 夜 キ ジ の 御 馳走 に な っ た 。 9 月 15 日 に は 佐 藤 ,伊 藤 の 両 氏 と奉 天 北 陵 に 採 集 し た 。
農 場 長 と し て は 農 事 改 良 に 力 を 尽 し た の で 農民 か ら感謝 され た 。 奉 天 省財 務 課 長 大 平 氏 が 農場 視察 に 来 て ,薬 用 植 物 蒐 集栽 培研 究 の 計 画 案 を 出せ と の こ とで 18,000円 の 案 を 出 し た ら年 20,OOO円を 支 給 さ れ た 。 あ る と き 県 の 総務 科 長 と 産 業科 長 と が 呼 び つ け ,辞 職 せ よ と迫 っ た 。佐 藤氏 は 遼 陽 県 の た め に や め な い と返 事 し た 。
そ し て つ い に 昭 和 20年 8 月 15 日 の 終戦 の 日 を 遼 陽 で 迎えた , 佐 藤 氏 は 蒙古地 方 で 採集 さ れ た 多 くの キ ク 科 植 物 を 私 に 同定 の た め に 送 られ た 。 こ れ は 京 大 に 税 存 す る)。
満 州 国 内 に 漆 樹 の 栽 培 を 勧 め る 。
在満 31年 間 に 植 物 標本 約30万点 (佐藤 氏 は こ の 数 字 は 正確で な い と い う),植 物文 献 約 3 万 冊 (こ れ は 正 確 で な い と い う),植 物写 真7,OOO枚 (こ れ は 正 確)を 集 め た と の こ とで あ る 。
敗 戦後 昭 和 21年 4 月 。遼 陽 県 農 林場 留用 。 太 平 洋戦 争 が 始 ま る と , 宣 教師 が 引 き あげ た の で そ の 家 に 移 っ た 。敗 戦 と 同時 に 日本 町 にあ る 岡 田 藤 太 郎氏 宅 に 家族 全 員が 避難 し た 。 家に あ っ た家 財 道 具 や 蒙 彊 植 物 誌 の 原 稿 と そ の 写 真 の フ イ ル ム , 生 薬 の 写真 フ イ ル ム が 盗 まれ た 。 農 場附 近 で は 昭 和 20年 8 月 17 ご ろか ら農民 の 掠 奪 が 始 ま っ た 。農 場 附近 の 農 民 代 表 と満人 場 員 とが ,農 場 の 資 料 は 場 長の 大 切 な 資 料 で あ る か ら ,掠 奪 され な い と思 うが , も しや 失 っ て は い け な い か ら 安全 な 場 所 に 移 しな さ い と い っ た 。 早 速 満 蒙 棉花 株 式会 社の 金 庫 に 運 ん で も ら っ た 。
8 月 24 日 の 早 朝45台 の 馬 車 が 2 日 間 で 全 部 運 ん で くれ た 。26 日 ,僅か だ が 馬 車 1 台10円 の 御礼 を 申 し 出 た ら受 け 取 らず , 農 民 が 集 っ て 盛 大 な 送 別 宴 を 催 し, 中国 に い る 閤 は 不 自由 は さ せ な い と云 っ て くれ た 。 そ の 後 と き ど き 蔬菜 や お 米 や 卵 な ど を も っ て 来て くれ ,満 人 場員 も 戦 前 と変 りな く, 私 の 家 へ 出 入 し て い た 。
昭 和 22年 1 月 1 日 中 国 の 東 北大 学 教 授 とな り,農 学 院で 森 林樹 木 学 ,理 学院 で 植 物分 類 学 お よ び薬 用 植 物学 を講 義 し た 。 さ き の 資 料 は 農 学 院 長 郭 景盛 氏 が 奉 天 に 運 ん で くれ た 。 昭 22年 9 月 沈 陽 医 学 院教 授 と な り ,薬用 植物 学 を講 義 し た 。
昭 和 24年 11月 1 口 中華 人 民 共 和 国 の 中国 医 学大 学 薬 学 院教 授 と な る (月給 1, 400 扮)。
昭 和 25年 9 月 中華 人 民 共 和 国 薬 典編 纂委員 とな る 。
昭 和 26年 10月 新 設 沈 陽 農 学院 嘱託 と な り観 賞樹 木 学 を 講 義 した 。
昭 和 22年 1 月 か ら奉 天 の 東北 大 学 に 国民 政 府 の 留用 とな り,奉 天 に 移 っ た 。 次 い で 中共政 府 で は 薬 学 院 の 専家 で あ っ た 。 専 家 は 日本 に は な い 制度 で あ る が ,教 授 の 上 の 職 で あ る 。薬学 院 で は 専家 は 1 名 だ け で あ っ た 。 佐 藤 氏 は い う 「給 料 は 全 教 職員 が 一堂 に 会 し て 決定 す る の で , 学 歴 が よ くて も力 の な い も の は 高 給 は も ら え な い 。 し か し ,中 共 で は 技 術を 待遇 す る の で ,そ の 人 を 待遇 す る の で は な い 。 よ くそ の へ ん を十 分 玩 味 し て い た だ き た い 。 そ れ だ か ら学 院 で は し き りに 私 が 中共 に 留 る こ と を すす め て くれ た が ,多 くの 資 料を 満 州 に 残 し て 昭 和28年 10月14 目 祖 国 日 本 に 帰 っ て 来 た 」。
佐 藤 氏 が 勤 務 した 遼 陽 の 農 場 は , 県 立 農 事 試験 場 に な り,次 い で 国営 棉 花 試験 場 と な っ た 。
帰 国後 昭和 28年 「漢 薬 の 原 植 物」 を 京都 大学 に 提 出 し て 薬学 博 士 と な る 。 農 林省 東 京 営 林局 を 辞 任 し た 。 三 宝 製 薬 株 式会 社 に 勤 務 。 帰 国 した 家族 は 夫人 と し子 さん と 次女 紀 子 さ ん の 3 人 で ,長 女 と 長 男 は 満 州 で 死亡 され た 。 昭 和28年 12月25 日 発行 の 分類 地 理 15巻 3 号 の 裏表 紙 に , 雑 報 と し て 佐 藤 潤平 氏 談 を私 が書 い た 。 佐 藤氏 が満 州 に 残 さ れ た 標本 の 所 在 を の べ て あ る 。 植 物 の 図版 や 原 稿 は さ き に 帰 国 し た 友 入 に 持 ち運 ん で も ら っ た もの も あ る が ,佐藤 氏 自身 は 持 ち 帰 りは 許 され な か っ た 。
家庭 で 使 え る 薬 に な る 植物 1 昭 和 36年 10月 1 日 発 行 発 行 所 創 元 社 380円 。
帰 国後 日 本 の 植 物 約 5 万点 ,植 物 写真 約 1 万 余 枚 を あ つ め た との こ とで あ る 。
思 い 出
佐 藤 潤平 さ ん は座 談 に す ぐれ て い た 。 典型 的 な 秋 田人 で , 秋 田 弁 で 一生 通 した 。遼 陽で あ っ た 時 は 1 日 2 食 を通 して い た 。菜 食 を 強 行 した 時 もあ っ た と い う。帰 国後 ,あ る 日 ,京 都 に 来 ら れ て 拙宅 に 泊 ら れ た 。朝 早 くか ら夜 12時過 ぎ ま で ,ぶ っ 通 しで 中共 の 事情 や , 満 蒙 植物 採 集 旅 行 談 を さ れ た 。
採 集 中 に 寝 そ べ っ た 虎 を 見 た 話 ,狼 の 群 に お そ われ た 話 ; 「ト ラ ッ ク に 兵 士 と 一緒 に 乗 っ て い た が ,夜 に な っ て 狼 の 群に か こ まれ た 。路 が 悪 く早 く走 れ な い 。 や が て 狼 は 車 の 前 を 横 切 っ て 跳ぶ し, 後 か ら跳 び つ こ うとす る 。 仕 方 な く, 兵 士 は 鉄 砲 で 狼を 打 つ 。 あ た る と 共食 の 間 に 時を か せ ぐ。 よ うや く朝 に な っ た 。 」 と い っ た 調 子 で あ る。
佐 藤 さ ん は 家 庭 療 法 に 詳 し か っ た 。 「の ど を 痛 め た と きは , ば ん 茶 に 少 し塩 を入 れて うが い を す る と よ い 」 と い っ た 。 私 は30年 間 もそ れ を実 行 して い る。 こ れ か らさ き も,の ど が 痛 くな る と 佐 藤 さ ん の 親切 を 思 い 出す だ ろ う。
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余談がたくさんありますね。
他にも佐藤潤平を評したPDFがありました。
忘れ得ぬ植物・漢方薬の学者―佐藤潤平
郭 秀 梅( 順天堂大学医学部医史学研究室/北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部)
佐藤潤平(1896~1970)は秋田に生まれ,1917 年に秋田師範学校を卒,1922 年中国に渡り,1953 年 に帰国した.旧満州で過ごした 30 年間に,学校教諭・植物園園長・農場長・薬学院教授などを歴任し ている.その間,植物標本 30 万点・植物文献 3 万冊・植物写真 7 千余枚・図版数百枚という厖大な貴重 資料を蒐集し,『満洲水草図譜』『満蒙通俗薬用食用植物』『満洲国内に漆樹の栽培を勧める』『満洲樹木 図説』などを著した. 佐藤は祖父および父親の影響で,幼年より植物・漢方薬に多大な興味を持ち,自然の山野にとけ込ん だ少年時代だったという.大正 2 年(1912)の師範学校在学中,植物採集と研究に夢中となり,植物標 本づくりや園芸に驚異的成果を挙げ,大正八年(1919)には 23 歳の若さで『東北実用植物之新研究』 を出版した.本書はおよそ植物の形状・効能・栽培法の項目で記載し,書末には有毒植物篇も設ける. しかし本書には本草文献の引用がほとんど見えず,主に日常の観察によったと考えられる. いま生薬の効能を正確に臨床応用するための最大の問題は,恐らく時代および地域による植物名の相 違だろう.したがって佐藤は早くより,中国の植物が分からなければ漢薬の原植物は解決できないこと を認識した.そのため中国に渡り,30年間一途に中国植物を調査し,それらの種と分布を明らかにした. 特筆すべきは,多年にわたり,あらゆる機会を利用し,中国の東北・華北にわたる 30 余都市で百軒 以上の漢薬店を尋ね,市販生薬の植物名と薬効を詳細に調査し,正確に記録したことである.これは当 時の歴史情況からしても,佐藤潤平のみがなし得たことだった.それゆえ彼の記録や写真は,当時の中 国における漢薬の使用情況をありのままに反映しており,現在に貴重な史料を遺したといえる. 例えば冬葵の調査結果にはこうある. 現中国の薬店では種子を冬葵子と称して応用している.原植物は昔がアオイ科のフユアオイの種子を冬 葵子として応用したものであろうが,私が渡満した大正の終わり頃は,ほとんどアオイ科のイチビの種 子であった.その後ソ連からアオイ科のケナフが満洲へ輸入栽培されるにいたってからは,ほとんどケ ナフの種子を冬葵子と称して薬用に供するに至った. 1950 年代の中国では,中薬調査の全国キャンペーンを行い,佐藤など日本人の著作や資料が参考・利 用されている.これら日本人の著作は,中国の生薬資源調査の空白を補填したと言えよう.佐藤は中国 の 30 年および帰国後の 20 年で蓄積した知識と豊富な資料により,『漢薬の原植物』『薬になる植物』な どを著した.そして中国と日本の薬店での生薬の取り扱いを比べつつあった.これらの著作は現代の植 物の実態と薬効を如実に記載し,しかも多くは身近な生薬なので,その実用性は過去の本草書より高い と言っても過言ではない. 佐藤は中国大地に情熱を注ぎ,草木に親炙したのみならず,農村改革と農民指導にも挺身して成果を あげた.それゆえ引き上げの混乱期にも,大量の資料は農民により保護・運搬され,盛大な送別宴が催 された.こうした長年にわたる多大の苦難にもかかわらず,誠心をもって中国に貢献したことにより政 府・大衆の信頼を得て,のち大学教授および『中華人民共和国薬典』編纂委員に任命された. 佐藤潤平は植物・漢方薬の研究に一生を尽くした忘れ得ぬ人物である.大村明氏は彼の学問と人柄 を,「植物と一緒に大地から生えてきた男,植物に関しては学の鬼で,人格も植物のごとく人を傷つける動物性がまったくない」,と評している