ろう者の間で、スマホに向かって手話をしている姿はよく見かけます。考えてみると、スマホはろう者にとって画期的なアイテムでした。 はるか昔、ろう者に連絡するのためには家へ行って伝えていたそうで、それから考えてもFAXもありがたい存在だったのでしょう。最初に書いた「愛していると言ってくれ」でも、FAXでのやりとりのシーンがありました。 それから携帯電話のメール、スマホの動画チャットとめまぐるしく情報アイテムが進化しており、私の感じるところでは、今や健聴者よりろう者から教えてもら
盲ろう支援をするにあたって、いろんな研修・講座を受けました。その時にも、周りはろう者がいました。ある研修では、7:3の割合で圧倒的にろう者が多く、手話が飛び交っていました。 あれだけ手話通訳を経験してきた私ですが、ろう者同士の会話には入れず、何を話してるんだろうと見るのが精一杯でした。ろう者には、会話に入ってきなさいと言われましたが、入るにも内容がわからんのじゃーと心の中で叫びながらも孤立状態でした。そして、またまた調子に乗っていたと反省です。 しかし、長い期間ろう者の中
手話通訳に行く時、大なり小なり緊張はします。 盲ろう支援の事業所へ行く時も多少の緊張はありましたが、行ってみるとあちらにもこちらにも見たことのある顔が!一気に安心しました。 その中でも、盲ろう者向け通訳・介助員にあの運命を変えてくれた友達がいたんです。まさか私の先輩になるとは…。とても優しい支援をしていました。 彼女と一緒にいた期間は短かったのですが、「繋がり」というものを感じました。彼女に出会って手話の世界へ、それから十数年の間、数回会っただけで、その後盲ろうの世界へ入っ
手話技術も伸び悩みながら、ろう者との壁を感じながら手話通訳を長年続けていました。そんな中、再び転機が訪れたのです。 ある時、友達から盲ろう者支援をやってみないかと誘われました。いくら手話通訳をしていても、盲ろう者の支援となると敷居が高いのは想像出来ます。でも、私は二つ返事でOK!すんなり受け入れました。 手話通訳を始めた頃、盲ろう支援を経験していたのです。その方は全盲ろうでコミュニケーションは触手話でした。その時は訳もわからず必死でした。 そんな経験があってこそ、なんの
手話通訳者といってもレベルの差は大きく、その頃の私はろう者に認められる通訳者になりたいと思ってやっていたように思います 今から思うと、そんなのは遥か遠くの夢 ろう者は日本手話が使える人を求めていると、今になって思うようになりました 私自身、ここ最近になってようやく日本手話を理解し、ろう者に教えてもらいながら、ろう者の手話を見て繋がるようになってきました それでも読み取れないろう者の手話はまだまだあり、そういう方の読み取り通訳なんてうまく出来ません ろう者の日本手話は見る
初めての手話通訳の依頼は「記録係」。 講義の内容をまとめて書き留めるという依頼だったと思います。今思うと、記録をしながら手話通訳とはどんなものか学べ!と言うメッセージがあったんだと思いますが、その時はちんぷんかんぷんでそこにいました。 次は、ろう者のゲートボール大会の通訳。 簡単と思いきや、数字の表し方をその場でろう者から教えてもらう始末😓、その後の健聴者の挨拶の通訳も、原稿がないので私は固まったまま。見かねた先輩が全て通訳してくれました。 同じ通訳料をもらうのが申し訳な
ろうの友達が出来て手話を使う毎日でしたが、再び旦那の転勤。貴重な出会いを経験したのにも関わらず、また手話を使わない日々に舞い戻るのかと残念でした。 そこで、引っ越し先で手話サークルに入りました。サークルでは、以前会ったことのあるろう者2人と再会しました。 サークルで誘われるまま手話通訳の試験を受けたところ、地域の試験だった為か合格出来ました。といっても全国レベルには程遠く、よちよち歩きといった感じでしょうか。 また、子どもも手がかかる年齢でスポーツも始めたこともあり、な
彼女とは毎日のように、手話、ジェスチャー、筆談などあらゆるものを使ってコミュニケーションを取っていました。その様子を見ていた周りのお母さん達も声をかけてくれるようになり、手話サークルも始まりました。 近くでやってた地域の手話サークルにも参加してみたのですが、そこで手話通訳の方から「ろう者かと思った」と言われたのが始まり💦とても嬉しくなり得意げに手話で話していました。今思うと手話にもなっていない「なんちゃって手話」状態だったのではないかなと恥ずかしく思います。それもそのはず、
勇気を振り絞っての彼女の肩に「トントン」。 振り返った彼女に、練習してきた手話で「〇〇(指文字)の母です」としてみました。驚いた彼女は「手話どうして?」と言ったように思います。私は「手話を覚えたい」と手話で返すことができ、私の手のひらに「うれしい」と指で書いてくれました。次に会った時には、手話の本を持ってきてくれました、「あげる」と。 それから私達は、ありとあらゆる方法でおしゃべりをしました。スマホがまだない時代、筆談や手のひら書きはもちろん、土に棒で文字を書いたり、口を大
引っ越した先では、初めての土地、初めてのお母さん達の中で全く慣れず孤独でした。手話のことも忘れ日々の生活を送るのに精一杯でした。 そんな生活にも少しずつ慣れてきた頃、突然私の前に現れたのが、子どものクラスメイトのお母さんでした。手話で自己紹介をする姿を間近で見て衝撃を受けました。 そう以前、家で「東京」「飛行機」とお風呂で手話の練習をしていたものですから、手話を使うチャンスが訪れたのですが、なかなか自分から声をかけられるものではありませんでした。「〇〇の母です」と手話の練
結婚をして子どもにも恵まれていた頃に、ドラマを見て手話に興味を持ちましたが、可愛い絵本を見ながら手を動かすだけで、ろう者と関わることのない毎日を送っていました。 そんな私がまだ独身で、医療機関の受付の仕事をしていた頃、すでに2人のろう者と出会っていました。その2人は患者さんで、受付では主に筆談、お金は計算機の数字を見せて受け取っていました。その頃の私といえば手話は全く出来ず、手話を覚えたいという興味さえもありませんでした。ただ、次の聞こえる患者さんの対応をした時、話すだけで
はじめまして、手話通訳者&盲ろう者向け通訳・介助員の50代女性👩です はるか昔、豊川悦司さんと常盤貴子さんが主演のドラマ「愛していると言ってくれ」が流行しました。豊川悦司さんが聴覚障害者の設定で手話を使っており、最近の目黒蓮さんと川口春奈さんの「silent」と同じように、その時も手話ブームが起こっていました。 私も手話が心に留まり、幼児用の手話の本を購入しました。「バナナ」「飛行機」「自転車」などそのものをそのまま表す手話が大きく絵で描かれている絵本でした。その中でも「