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中国史ー秦の終わり~(前)漢まで

こんにちは。今日は前回の続き、秦国の滅亡についてです。秦は乱世で勝利を勝ち取り中華を統一しましたが、わりと早く滅びてしまうんです。前回の記事で、始皇帝の統治の仕方に多くの人が不満をいだいていた‥ということ。さらに、反乱を起こした人物についてや、反乱のきっかけなんかを説明しました。今回はその反乱が大きくなっていって誰がどうなったかを学んでいきたいと思います。ちなみに始皇帝は前回で死んで、今は息子の胡亥が皇帝となっています。

項羽vs劉邦

前回の記事では、元楚の大将軍を祖父にもつ項羽。
罪人になって裁かれそうになるのを回避したい劉邦。
この二人が同時期に反乱を起こした‥ということを説明しましたね。
その間、陳勝と呉広という人物も反乱を起こしていましたが、そちらは秦の将軍によってつぶされてしまいました。この陳勝・呉広と合流して反乱組織を拡大しようと思っていた項羽と劉邦。さあどうなるんでしょうか?

項羽と劉邦の別行動

項羽と叔父の項梁は元楚の王の血族を見つけ、その人物を王に立てて楚の国を復活させました。劉邦は項羽達に合流し、共に秦の中心地へとそれぞれ移動します。ここがポイントで、なんで別々に行動したんだろう?と疑問になりました。だって一緒に行けばいいじゃん?でもそれだけ、それぞれが連れている兵の数が多かった‥ということなんでしょうか?結局劉邦の軍の方が先に目的地に到着しちゃうわけです。先に都へ着いた劉邦を待っていたのは秦の皇帝(子嬰しえい)でした。前回の記事で書きましたが、始皇帝の跡継ぎに最初から決まっていたのは扶蘇(ふそ)でしたが、その扶蘇を殺して皇位を奪ったのが胡亥(こがい)です。でもその胡亥が死んで今の秦の皇帝は子嬰になっていたんです。この人らは全員兄弟なんですかね?
で、劉邦が入城して説得したかなんかして、子嬰はおとなしく降伏したわけです。そして子嬰を殺さず、民や兵を無駄に傷付けなかったらしい。なんか感じ良いですね劉邦って♡

同年11月、劉邦は覇上に各地の父老や豪族を呼び寄せて、「私が(関中を落としたことによる功績をあげたため、先に楚の懐王と)諸侯との約束により、関中王となるであろう。関中王になった後は、法は三章のみ(人を殺すものは死罪、人を傷つけるものと人のものを盗んだものは罰する)とする。それ以外の秦の法は取り除くであろう」ことを約束した。劉邦は、使者を秦の役人とともに秦の土地であった郷や邑に送り、このことを宣言させた。秦の人々は大いに喜んで、劉邦が秦王になれないことを恐れた[11]。

ウィキペディア「子嬰」より

‥ということで、秦の都にいた人々なんかに好印象を与えた劉邦!でも項羽は自分が先に入城して、子嬰を捕らえ、秦を滅ぼしたのは自分だ!ということを知らしめよう‥と計画していたわけですから、劉邦にブチ切れなわけですよ。劉邦は楚軍についていたわけだから、項羽的には手柄を自分より下の人間に横取りされた!って思ったんじゃないかな。項羽の怒りマークに気付いた劉邦は項羽に釈明しました。劉邦を殺そうとしていた項羽は、家臣の進言もあり、劉邦を許したそうです。

劉邦は漢に左遷

その後、入城した項羽は子嬰を殺し、始皇帝の財宝を奪いまくって、好き放題やったとか‥。これで完全に秦は滅びました!結果項羽が秦を滅ぼしたってことなんですね。劉邦が滅ぼしたようなもんですが、秦の皇帝を殺したのは項羽だし‥。
それにしても劉邦が紳士に見えるな~。でも劉邦は後にくる項羽に悪い印象を抱かせないためにも、入城したとき略奪とかしなかったんじゃないかな‥。あくまでも、自分が先に入城して子嬰を降伏させましたが、それは項羽様をここで待つためのものであって、決して自分が王になるつもりではありません‥とか?劉邦はそう項羽に釈明したんだと思います。

んで、その後劉邦はどうなったかと言いますと‥
実質、自分が秦を滅ぼして手柄をたてたというのに(まあ、その前までもいろいろ楚軍のために頑張ったのかな。)結局劉邦への褒美はそこまで凄くなかったようです。漢中っていう奥地を与えられ、その土地の諸侯になることを認められたようです。(封建) これって左遷っぽいイメージのようです。というかこの事が左遷の言葉の由来になったそうです。
ううう~ん‥劉邦が項羽に対してどんな気持ちになるか‥見えてきますね。項羽の方も、劉邦が邪魔な感じですね。

勝利したのは劉邦

項羽に対してフツフツと怒り?不満が溜まっていった劉邦。これは戦の予感です!ってなわけで、項羽vs劉邦の楚漢の戦いが始まります。

項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。

ウィキペディア「劉邦」より

↑このように、項羽に対してモヤモヤしてる諸侯は多かったようです。なんだか劉邦に味方しそうな感じですね。

項羽の軍勢は強く、なんと4年間戦い続けたとか‥。長ーい戦いでなかなか決着がつかなく、東を楚(項羽)、西を漢(劉邦)ってことにして土地を分け、講和を結ぶことになりました。が、そこから劉邦が騙し討ちを仕掛けたり、逃亡したり、いろいろ繰り返してようやく項羽を追い詰めました。

漢王朝誕生

ようやく項羽との対決に勝利した劉邦。劉邦(漢王)が勝利したことで漢王朝が成立します。いや~長かった‥。

劉邦の政治

疲れてきたのでここは適当に‥(笑)
劉邦(高祖)は秦時代に良かった点は活かし、反乱の原因となった点は改善しました。有名なのは郡国制です。これはもう自分で調べてください(笑)
劉邦のテーマは「焦らない」ことだと思います。急な改革は本人はいいとしても、ついていく民達は大変ですから。急がずゆっくり変化させていったのですね。
そんな劉邦の時代でも各地で反乱は起りました。
諸侯王たちが謀反を企てたときは、当事者達を処罰したのち、次の王として自分の愛人に産ませた子供を斉王、趙王におきました。こうして諸国を同姓一族(劉一族)でかためていったのです。

外交面では匈奴と講和を結びました。
匈奴(きょうど)というと、中国の北方民族で、モンゴル高原で遊牧生活を送っていた人々です。騎馬遊牧民族ともいって、騎馬技術がとても優れていた民族でした。秦は中華の西方に位置していたこともあり、始皇帝は匈奴への警戒をゆるめませんでした。また、周、秦、漢の王朝はいずれも首都を華北平原の西端に置いていて、これは匈奴が侵入してこないか目を光らせやすい場所だったため‥と言われています。それほど歴代王朝にとって匈奴は強敵なんですね。
匈奴との戦で危機に陥った高祖は、王室から美しい姫を、また毎年絹や酒、金銀財宝を贈る約束を結びました。これは漢からしたら屈辱的なことだと思われます。この講和条約は7代続いた‥とか?多分。

高祖死す‥皇后の外戚政治

劉邦には何人も妻がいたので、誰を太子とするか、後継者争いが激化しました。が、結果昔からの妻である呂皇后との子供、盈(えい)が次期皇帝となりました。(恵帝) しかし劉邦亡き後、この呂皇后が劉邦の愛人とその間に生まれていた子供を次々殺していきます。劉邦の子供というと、斉や趙の王になっていましたから、殺すのだって簡単じゃないですよね‥(;^_^A) この呂皇后は残酷なことでも有名で、あまりにむごいことをするので、呂皇后の息子である恵帝は心を病んでしまいます。さらに恵帝が大人しい性格なのをいいことに呂皇后は好き勝手!!恵帝の正妻も、重役も、後継者も‥全て呂一族でかためていきます。やべーなこの女((´∀`))ケラケラ
ま、そんなわけで、劉邦の血を受け継いだ優秀な人物はどんどん死に、代わりに呂一族をとりたて外戚政治を行うんですね。この体制がくずれるのは呂皇后が死ぬ頃までかな。

漢の安定期

呂皇后が亡くなった後、呂一族は反対勢力に一掃されました。
その後は劉恒が文帝となり国を安定させました。劉恒は劉邦と薄姫という女性との間に生まれた子です。この薄姫は権力欲が少なくとても人格者だったとか。これは呂皇后から恨みを買わなかったことの要因であると思われます。文帝となった劉恒は薄姫とともに平和的な政治を行います。

その後は景帝~から武帝が即位し、ここで漢は大きく変化しました。
文帝、景帝の頃に蓄えた財を使いまくって匈奴遠征を繰り返します。そのかいあってか、武帝はどんどん領土を広げていきます。やがて国の財政が苦しくなり、民から厳しく税をとりたて、各地で反乱が起ります。
武帝が亡きあとは、武帝のときのように匈奴遠征は控え、税を軽くし、厳しい法を改正するなど、人々に安心を与える政治を行いました。
その間に王莽という人物が力をつけ、宮廷内で影響力を強めていきます。この王莽(おうもう)こそが漢の前期を終わらせる人物です。

(前)漢滅亡

漢は王莽によって滅ぼされました。どう滅ぼされたかを簡単に説明すると‥。まず、王莽は元帝の皇后の一族でした。元帝が亡くなった後、王皇后が実権を握ります。そして王一族の外戚政治が始まるのです。時期を見てアピールし、王莽も宮廷で働けるようになります。すると王莽はどんどん出世していき、皇帝の側近となりました。皇帝が死に、まだ幼い平帝が即位したとき、王莽は皇帝の代わりに政治を行うようになります。そして「王莽こそが皇帝にふさわしい」という雰囲気にもっていき、本当に皇帝になってしまいます。こうして漢は滅び、王莽によって新(しん)という王朝ができました。が、この新は国を混乱に陥らせ、わずか15年で滅びました。

いや~次回はいよいよ後漢について!そして漢の時代の終わりについてです!もう~私が三国志を勉強するのは一体いつなんでしょう?

お疲れ様でした‥



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