世界史ー古代中国④【春秋戦国時代ー参】
こんばんは。前々回から古代中国、春秋戦国時代について勉強しています。も~今日こそは絶対!春秋戦国終わらせてみせます!
前回では、戦国時代に入り秦が勢力を増してきて、他の六ヵ国が押され気味‥というところまでいきました。そして、春秋戦国時代で農業、商業、工業が発展していったこともお話しましたね。本日は秦という国がどのように強くなって他の国を支配していったのかを学んでいきます。
秦国の成り立ち
秦の地を初めて(周王から)もらったのは非子という人物。その後、襄公という人物が西周の幽王を討ち、東周に逃げる平王を護衛したことから諸侯として認められます。
歴代の王
秦の歴代の王達が分かりやすく書かれている記事です⇓
勉強になりました。ありがとうございました。この表を見ながら、主要な人物をチェックしていきます。(考公からは6代続けて説明していきます。)
穆公
【この頃の秦と晋の関係】
晋との関係が深かったため、晋国内の政治に介入することが多かった穆公(ぼくこう)。晋の王(献公)が亡くなった後の跡継ぎに、重耳(息子1)と夷吾(息子2)の兄弟を後押しする。が、夷吾には恩を仇で返されることが度々あり、険悪な雰囲気になる。重耳は跡継ぎ問題で自分の立場が危険にさらされたことから、ずっと各国を放浪している。晋の王には重耳が良い思っていた穆公は、月日を経て重耳と再会する。その後穆公の支援もあり、重耳は晋の文公となる。その後文公が亡くなってからは晋と秦は険悪になっていく。
(※この穆公は春秋五覇の説明のときに登場した人物です。)
孝公
【法治国家へと移行していく秦】
商鞅(しょうおう)という法家の政治家を起用し、共に様々な改革を行う。(変法) 商鞅と変法の内容はこちらで学んで下さい⇓
とても分かりやすかったです。ありがとうございました。
つまり、変法で厳しい法を作り、それを太子だろうが貴族だろうが民衆だろうが、皆平等に守らせました。法を正しく守る者、成果を上げた者には報奨を、守らず怠った者には罰を与えることを徹底したことで‥民は真面目に働き税を収め、軍は力をつけ強大になっていきました。このようにして秦は富国強兵を実現していき、さらに、貴族らの権力を弱まらせ中央集権制へと移行していったのです。
身分ある者に対しても、法で厳しく処罰してきた商鞅は、考公が亡くなった後、立場を失いました。が、商鞅亡き後も、法だけは秦で活用されていったそうです。
(※この商鞅という人物は、前回説明した、秦が他の6ヵ国よりも勢力をのばすきっかけになった人物です。)
昭襄王
【この頃の秦と趙の関係】
考公が亡くなった後は、恵文王が王になり、考公の政治方針を引き継いでいきました。その後、恵文王には子(武王)がいたが急死したため、武王の異母兄弟である昭襄王が若くして即位しました。昭襄王は東や南(楚)を打ち破り、領地を拡大していきました。その活躍には白起(はくき)という将軍の力が大きかったようです。その後、秦は趙を攻めていきますが、なかなか上手くいきませんでした。趙では昭襄王の孫にあたる子楚(後の荘襄王)と、その妻と子の殺害を計画します。(その頃子楚は人質として趙で監視付きの生活をしていた。)しかし、味方となる商人(呂不韋)のおかげで子楚親子は無事生き延びました。
【その頃の秦国内の人間関係】
国内では、叔父が宰相(君主を補佐した最高位の役職)を務めていたが、どんどん権力を握るようになり、それは秦の王族をしのぐほどになりました。昭襄王は、叔父で宰相である魏冄(ぎぜん)が邪魔になり、魏冄に支援してもらっていた白起将軍も彼を嫌がりました。その後、宰相魏冄は追放されました。が、新しい宰相(笵雎はんしょ)のせいで昭襄王と白起将軍の関係が悪くなっていき、最終的には白起将軍を自害させてしまうのです。連戦連勝の白起将軍を失ったことは、秦が戦をするにあたってとても大きな損害となりました。
白起将軍について、詳しくはこちらを参考にしてください⇓
考文王
太子の頃の名は安国君。父の昭襄王がとても長生きだったため、考文王が王位を継ぐ頃にはもう50代でした。そのためかすぐ亡くなってしまいます。なのであまり功績は少ないようで‥?覚えておきたいのは、始皇帝の祖父だということです。詳しくはこちらを参考にしてください⇓
荘襄王
やば‥もう疲れてきた…(泣)
もう‥荘襄王の若い頃についてのエピソードは、こちらをどうぞ⇓
ありがとうございました!参考になりました!
では、気を取り直して‥。
荘襄王は昭襄王(祖父)、考文王(父)の政権を引き継ぐため、周りに置く人間をあまり変えずに、そのまま起用しました。そして魏、韓、趙の攻略に挑んでいきます。
【この頃の秦と趙、魏との関係】
白起将軍の活躍で、長平の戦いに勝利した秦軍は、趙の首都(邯鄲かんたん)を制圧します。首都まで取られて、いよいよ危ない!となった趙は、魏に援軍を頼みます。その頃の魏の王は安釐王(あんきおう)でした。安釐王は、こちら(魏)が援軍を送ったところで趙が勝つ可能性は低いだろうと考え、戦わせず、軍を国境沿いに配置するまでにしました。これは、援軍として趙を支援することで、秦から次の標的にされるのを防ぐためでもありました。魏の将軍であった信陵君(しんりょうくん)はこの判断に戸惑いました。自分の姉が趙の王の妻だったからです。趙と姉を見捨てるわけにいかなかった信陵君は、安釐王の命令に背き、国境沿いで待機していた国軍を勝手に動かします。そして信陵君は魏軍を指揮し、秦軍を退かせることに成功したのです。趙は窮地を救ってくれた信陵君に感謝しました。が、自分の命令に背いた安釐王は彼を許しませんでした。帰る故郷を失った信陵君は、しばらく趙で暮らすことになりました。
その後、安釐王と和解した信陵君は帰国。魏の将軍として秦と戦います。諸国の王達は、信陵君が軍の指揮をとるのなら!と一斉に魏へ援軍を送り、秦を打ち負かしました。
信陵君が魏軍を指揮するかぎり、魏を討つことはできないだろう‥と判断した秦は、信陵君が王位を狙っているというウソの噂を流し、魏の安釐王を不安にさせる作戦をとりました。それを信じた安釐王は、優秀は信陵君を政治から遠ざけるようになりました。そして信陵君は表舞台に出なくなっていったのです。こうして魏は弱体化していきました。
荘襄王は王位について3年ほどで死去してしまいます。それまでは多数の諸国と戦い、領地拡大に努めました。
始皇帝
【父の即位とその後の政治に大きく関わった呂不韋】
荘襄王が亡くなったとき、趙で産まれた息子の政(せい)はもう13歳。まだ若い政を補佐するために政治を任されたのは呂不韋(りょふい)でした。
呂不韋は政の父、荘襄王が(休戦協定のため)趙で捕虜として生活していたときに支援してくれた人物です。また、荘襄王と荘襄王の妻を出合わせたのも呂不韋でした。(つまり政の母親) 荘襄王の祖父の昭襄王は、孫を趙の捕虜にしてもガンガン趙を攻めていくような人物だったので、荘襄王一家は趙で殺されそうになりました。が、それも呂不韋のおかげで難を逃れ、荘襄王は無事秦に帰国でき、その後、父(政の祖父)の考文王が即位した際、これまた呂不韋のおかげで太子として認められたわけです。呂不韋と荘襄王については上↑のサイトを見て学んで下さい。というわけで、荘襄王が王位に就くまでに尽力した呂不韋は、秦で宰相となり、その後政の時代でも政治に大いに関わっていきます。
その後の政の政治に関してはこちらのサイトが分かりやすくまとめてくれています⇓
【始皇帝の思想】
私がこの上↑のサイトを読んで、特に注目したのは‥韓非(かんぴ)について書かれた箇所でした。韓非とは法家の思想家です。国家を統治するには礼よりも法の力が重要だ‥と最初に説いた人物です。秦は考公の時代から法治主義です。その元ネタがこの人の思想なんですね。政は韓非の思想に共感し、本人を秦に呼んでさらに多くを学んだそうです。最後は政の側近に疎まれて殺されてしまいます。政の厳格な、忖度を嫌うような性格は、この韓非との語らいの中で形成されていったのかもしれません。
中華統一
【中華】と言うと【中原】のことでしたが、秦が中華統一した頃の範囲は中原のみではありませんでした。今のチベットやウイグル付近はまだ範囲外でしたが、それ以外の右半分はほぼ秦!すごい範囲を統治していたんですね。逆に、左半分が登場してくるのは‥。この後が楽しみです(⌒∇⌒)
始皇帝(政)の政治については先ほどのサイト↑で学んで下さい。
今回は、春秋戦国時代とはどんな時代で、どんな風な流れで秦に勢力が傾いていったかを勉強しました。各国の、諸国を支配していく戦略的なものは細かくは分かりませんでしたが、それぞれの諸国での人間関係を学ぶことによって、一つの国が強くなったり、弱くなって他国に支配されていったりする歴史の流れを理解することができたと思います。
次回は秦の繁栄を少しと、秦の滅亡、次に中華を支配していく漢について勉強していきたいと思います。
ありがとうございました。
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