瞳景/掌編小説
一.
私が子供の頃、7月と8月は人生で最も充実感に溢れた時期だった。
土の匂い、草の匂いを自転車で感じて、吐く息すら熱風となる暑い暑い夏。どこかで流れる甲子園のテレビ中継、ギラギラと光る太陽の突き刺すような光線。
肌に大粒の汗をかきながら、プールにいこうと話し合う。汗がベタベタと服にまとわりつく感覚もその時はわからなかった。
クーラーの効いた地下鉄副都心線で、ふと、目を閉じるとその思い出が走馬灯のようによぎる。
ああ、そうだった。私は大人になってしまったのだ。
二.
今日の面接はおそらく「お見送り」だ。
面接官には根掘り葉掘り聞かれた。その際に、言葉に窮したところをキツく詰められた。さらに説教もくらった。
「そんなんじゃ、君、通用しないよ」
こんなことは何遍も言われてきた。
なんだけど、面と向かって言われると落ち込む。陽が差してこない、無機質で涼しい地下鉄の電車はあの夏の対極にいる。
深く鼻息を吐く。疲れが空気に溶けるなら、今のため息は他の乗客を困らせる濃厚ガスになっていたに違いない。
三.
最寄りの駅で降り、西日を拝む。太陽は昔から変わっていないというのに、なぜだろう、優しい味がしない。
また、ため息をついてしまう。
「そんなんじゃ、君、通用しないよ。」
わかってる、わかってるよそんなこと。勤めも長くできない。同年代の人間は家族を手に入れて、役職を手に入れた。なのに、俺は何もない。
頭に浮かぶ面接官の声、逃げるように改札を出ていく。そのまま遠回りで家路に着く。
「そんなんじゃ、君、通用しないよ。」
もう、出ていってくれないか。わかってる。わかってるんだ。
その時、ふと気づく。祭囃子と太鼓の音。ソースを焼いた甘く香ばしい匂い。
夏祭りだ。目の前のお寺か神社で夏祭りをやっている。
四.
夏祭り。久しく聞く言葉だった。その後のこととかを考えず、気づけば足を運んでいた。
夏祭りは盛況であった。浴衣を着た子供、楽しみにきたカップル、時間を合わせて遊びに来ている中学生くらいの団体。笛の音に、心地よい太鼓のリズム。
しかしなぜだろう。なぜ、ドキドキしないんだろう。どうして、この空間にワクワクしないんだろう。
神社に一歩入ったとしても、少年の頃に見た思い出には、没入することはできなかった。
あの時と同じ感性はもうない。無くなっていたことも知らなかった。たかが祭りで、自分の思い出の残滓をもう一度味わえると思った自分が間違いだった。
もう俺には、学校に縛られない期間も、口うるさい親も、一緒に遊んでくれる友達も、早く起きなくてはいけない朝も、夜更かしを特別に許される夜も、よくよくその使い道を考えなければいけない50円玉も、氷が溶けて味が薄くなった麦茶の入った水筒も、お気に入りの半ズボンも、寝食を忘れるほど没頭する漫画も、計画だけ立てて何も手をつけてない宿題も、もうない。
孤独だ。
俺には何もない。
目の前の子供たちが狭い通路を歩く俺を邪魔そうに見た。8つの瞳はそのあと俺の姿を中に入れない。無邪気な笑い声は私を避けて別の場所に移っていく。
「そんなんじゃ、君、通用しないよ。」
面接官のおっさんは呟く。ああ、俺はダメなやつだ。