管長日記「食べて眠っていればじゅうぶん」解釈20201220

今日の話は、いい話だった。仕事の認識、意識上の問題と思う。禅的な意味で。老師は立場は飾りみたいなものという。坐禅が仕事になっていると、好きなことが仕事であると。僧侶であること自体は、そんなに仕事でもないのだろう。それはわかる。ただ、ひごろのこなしている講演や色々な活動という仕事内容を考えると、飾りでも済まないように思うが、そのあたりは、おそらく坐禅のようなもの、で通しているようだ。
師家になったことが一番つらかったという。修業はあとから振り返ればつらいといったものでもないのだろう。師家は、その責任といったものがしんどかったようだ。想像できなくもないのだが、これも実は後から考えれば良い思い出とされるものではなかろうか。大きなストレスを感じることがあるが、慣れてしまったり、終わればむしろ楽しみだろう。ストレスにしている根底には人や集団を意識してしまう事だろう。
勿論、指導はうらみを買ってしまう可能性があり、こうなるとしんどい。老師は、そんな話は言ってないし、とくにそれを感じさせるようなことばもなかった。そう、一番しんどいと思うのは、理不尽な人間関係だと思うが、そのようなことについて触れていないのだ。仏教では妄想であって、また多くの書籍や古来典籍でも指摘されており、よって空とか佛心、成佛(死ぬことではない)という考え方がある。
社会や組織における合理的な仕組みとそれに対する感情と分けてみるのだが、感情は人間が持っている仕組みそのものなのだ。ただ、ここで社会とかの仕組みを考えてみることは重要だが、人としては逃げ出としてもそこに別の妄想で上書き、上塗りしてしまうようなことは無いようにしたい。

構成:
1.雑誌『フリースタイルな僧侶たち』
2.アンケート「何のためにはたらいていますか」
3.「仕事を辞めたいと思ったことはありますか?」
4.「死を考える」

■1.雑誌『フリースタイルな僧侶たち』

そういえば、この雑誌編集の僧侶からのインタビューが今日の話だった。
「フリースタイルな僧侶たちは、宗派を超えた若いお坊さんが集まって創刊されたフリーペーパーです。2024年8月に刊行15周年を迎えました。毎号1万部以上、現在は年2回のペースで発行しています。全国のお寺を中心に、書店、大学、美術館、カフェなどで配布されていますので、ぜひ探してみてください。フリースタイルな僧侶たちに込めているのは、この雑誌を媒介に、お寺と街、そして宗教と文化の間に、ゆるやかな関係が生まれてほしいという願いです。」

■2.アンケート「何のためにはたらいていますか」

アンケート調査を見せてもらったという。

何のためにはたらいていますかという質問に、お金、生活の為というのが57.9パーセント。自己実現のためというのは28パーセントです。これについてどう思うか、また私自身はどう思ってはたらいているかという質問でした。

老師、「私自身は、あまりはたらいているという実感はないのです。好きなことを好きなようにやって生きているという思いです。その点、幸せな人生だと感謝しています。坐禅は好きでやっています。好きでやっていた坐禅が本業になってしまい、今やっていることのすべては坐禅の延長線上にあります。すべて坐禅の変化形だと思っています。もっといえばどれも坐禅なのです。立場や肩書きは飾りくらいに思っているのです。自分の本質は坐禅、坐禅の本質はただ息をしているだけです。それで十分だと思って生きています。」

■3.「仕事を辞めたいと思ったことはありますか?」

多くは、「全体的には、抑圧や不満、あるいは金銭的不安を感じながら仕事を続けている人が多いのではないかと推察できる」であるようだ。

「仕事が大変でストレス値が高すぎるから」というアンケートの結論。

老師は次のように答える。
「私は、簡単に考えると、そこでとどまるか、逃げるかの二つに一つでしょうと申し上げました。ダメだと思ったらもう逃げるしかありません。それでもまたどこかで生きてゆけるものです。」

私自身、修行の世界にずっと生きてきたのですが、たいへんだと思ったのは、やはり若くして師家という役目についたことでした。自分でただ坐禅して修行するのは、これは望んだことですから、やめようと思ったことはないのです。しかし、どういうわけか、三十代の半ばで修行僧を指導する役目についたときは、今から思ってもたいへんでした。自分が修行していればいいというのとは訳が違います。

その通りで、その解決については、

臨済宗では師家という、修行僧を指導する役目はとても高い地位に就くことにもなっています。私としては、そんな地位などには何の関心もないのですが、坐る席次もみな定められて窮屈な思いでありました。やめた方が楽だと思ったものです。それでもそんな時には、明日逃げだそうと思ってきました。明日逃げ出せばいいと思うと今日一日はなんとか辛抱できるものです。そしてまた明日が来れば、明日逃げだそうと思うのです。この考えで今日一日を生きればいいと思うようになりました。

である。この考えはとても効果的だとおもう。

土台生きていることは目が覚めて服を着てご飯を食べて、排泄して寝るだけの営みです。もっといえば息を吸って吐くだけの営みです。これだけをやっていれば立派に生きているのです。これが坐禅の教えでもあります。坐って息をしていれば十分なのです。この坐禅があらゆる場面で救いとなってきました。

「諸君、仏法には、造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり、飯を食ったり、疲れたならば横になるだけだ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。」
(道流!佛法無用功處,秖是平常無事——屙屎、送尿、著衣、喫飯、困來即臥……。愚人笑我,智乃知焉。)
と臨済録の示衆四を伝えたという。ちなみに古人云:『向外作工夫,總是癡頑漢。』と続く。これはカッコいいところだ。

■4.「死を考える」

問、「するとどうしてそのように思えるようになったのですか?」
即答、「私は幼少の頃から死を考えてきた」

そのことを、次のように説明する。

死を基盤にしてものごとを考えます。皆さんは生きているのが当たり前と、生きていることを前提にして考えていると思います。それでもっと何かをしなければいけないと考えてしまうのではないでしょうかと伝えました。

そうなのだ、何かをしなければいけない、のだし、一生懸命意識の上でつなげているのだ。まわりもそのことを利用している。事業が成立していることと、自分が繋がっていると思っていることは別のことなのだろう。

死を基盤にすると、朝目が覚めてそれだけで幸せなのです。息をしているだけで奇跡なのです。坐禅はその事実を常に教えてくれるのです。坐禅は常に死に帰ることでもあります。

言葉ではゼロベース思考ということで、よく知られるのだが、もやもやせずに、体でわかるといっているのだろう。

もうちょっと、そのような坐禅はどのような坐禅なのか、聞いてみたかった。考えてみれば坐禅にもいろいろある。ちょっと困る。

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