管長日記「ブッダの悟り」解釈20241209
昨日は成道会、円覚寺の日曜説教でも仏陀の悟りの話だった。ライブは久しぶりだった。動画は禅文化研究所や招かれたお寺、講演会が時々アップロードされるが、ライブはやはりいいものである。
悪魔の話は面白かった。釋尊は美女に囲まれたが、それは若かりし頃の経験からそのような魔が襲ってきたという。老師の悪魔は違ったということだった。
構成:
1.釈尊の修行
2.釈尊、苦行をやめる
3.釈尊の坐禅と悟り
4.釈尊の悟りについて
悟りの表現は難しい。香厳撃竹が代表になるのだろう。宋代では言語作用や只管打坐で得られるとなり、江戸になると悟りは悟りとして、悟後の修行、おそらく後得智の獲得や実践が白隠禅師により主張された。
釈尊は直接にこのことは語っていないようだ。度衆生といったことばは大乗仏教のものだろう。釈尊の悟後の態度や活動は普遍的なものと思うが、その再現性というか、実践は難しく(というか時代的な違いの反映のこと)、証明できないのだろう。理論は欲しいと思う。
■1.釈尊の修行
「お釈迦様は難行苦行を六年なされました。二十九歳で出家して三十五歳で悟りを開かれるまでであります。断食の修行をしたりされました。」
中村元『ゴータマ・ブッダ上』(春秋社)引用
「わたくしはある恐ろしい森林にひそんでいた。その恐ろしい森林の恐ろしさについては、「なんぴとでもまだ貪欲を離れないでかの森林に入ったならば、おおよそ身の毛がよだつ」といわれていた。
わたくしは、寒冷にして降雪時期の、月の前分第八日から後分第八日にいたるまでの冬の夜には、夜は露天に、昼は森林に住していた。また夏の最後の月には、昼は露天に夜は森林に住していた。そこでいまだ聞かれたことのない、驚嘆するまでもないこの詩がわたくしに現われた。
暑き日も寒き夜も
ただ独り恐ろしき森に
裸形にして火もなく坐す。
聖者は探求をはたさん、と。
わたくしは墓場において死屍の骸骨を敷いて寝床とした。そのとき牧童たちがやってきて、わたくしに唾し、放尿し、塵芥をまきちらし、両耳の穴に木片を挿し入れた。しかしわたくしはかれらに対して悪心をおこさなかったことをおぼえている。わたくしの〈心の平静〉に住する行にはこのようなことがあった。』」
「王子様であった頃の暮らしとは全く異なります。子供達につばを吐きかけられても、平然と修行していたのでした。」
■2.釈尊、苦行をやめる
「そのとき、わたくしはこう思った、およそ過去に道の人(サマナ)あるいはバラモンで、急激猛烈な苦痛の感覚を受ける人々があるとしても、わたくしが受けたようなものは最高で、これ以上のものはないであろう。
およそ未来に道の人あるいはバラモンで、急激猛烈な苦痛の感覚を受けるであろう人々があるとしても、わたくしが受けたようなものは最高で、これ以上のものはないであろう。
およそ現在に道の人あるいはバラモンで、 急激猛烈な苦痛の感覚を受ける人々があるとしても、わたくしが受けたようなものは最高で、これ以上のものはないであろう。
だがわたくしはこの激しい苦行をもってして なお、人間を超えた、全き妙なるすぐれた智見に達することができない。
おそらくは、さとりにいたるには他の道があるのであろう、と」苦行をやめた。
■3.釈尊の坐禅と悟り
「お釈迦様はスジャーターという女性から牛乳のおかゆをいただき、体力を回復して、さらにソッティアという草刈りの人から、草を受け取って坐禅をなされたのでした。それが今のブッダガヤの金剛座のところであります。何を悟られたのか、伝統的には十二因縁を説かれることが多いのです。」
十二因縁は無明、行、識、名色、六處、触、受、愛、取、有、生、老死だったと思う。
中村『ゴータマ・ブッダ』引用
「あるとき世尊は、ウルヴェーラー村、ネーランジャラー河の岸辺に、菩提樹のもとにおられた。はじめてさとりを開いておられたのである。そのとき世尊は菩提樹のもとにおいて、七日のあいだずっと足を組んだままで、解脱の楽しみを享けつつ、坐しておられた。
ときに世尊は、その七日が過ぎてのちにその瞑想から出て、その夜の最初の部分において縁起〔の理法]を順の順序に従ってよく考えられた。「これがあるときにこれがある。これが生起するからこれが生起する。すなわち、無明によって生活作用があり、生活作用によって識別作用があり、識別作用によって名称と形態とがあり、名称と形態とによって六つの感受機能があり、六つの感受機能によって対象との接触があり、対象との接触によって感受作用があり、感受作用によって妄執があり、妄執によって執着があり、執着によって生存があり、生存によって出生があり、出生によって老いと死、憂い悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生ずる。このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて生起する。」
「「これが無いときにこれが無い。これが消滅するからこれが消滅する。
無明を止滅するならば、生活作用が止滅する。生活作用が止滅するならば、識別作用が止滅する。識別作用が止滅するならば、名称と形態とが止滅する。 名称と形態とが止滅するならば、六つの感受機能が止滅する。六つの感受機能が止滅するならば、対象との接触も止滅する。対象との接触が止滅するならば、感受作用も止滅する。 感受作用が止滅するならば、妄執も止滅する。妄執が止滅するならば、執着も止滅する。
執着が止滅するならば、生存も止滅する。生存が止滅するならば、出生も止滅する。 出生が止滅するならば、老いと死、憂い悲しみ・苦しみ・愁い悩みも止滅する。
このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて止滅する」と。」
「縁起の理法をよく考えられたと解説されています。十二縁起を観察されたということは、いかにして迷いを引き起こしてしまうのかを明らかにされたのだと思います。」
■4.釈尊の悟りについて
玉城康四郎『悟りと解脱―宗教と科学の真理について― 』(法蔵館文庫)引用
「「実にダンマ(法)が、熱心に入定しつつある修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して安立している。あたかも太陽が虚空を照らすがごとくである」悟りの爆発をブッダは「ダンマが顕わになる」と述べたのである。これが解脱の原点であり、その形なきいのちが、ブッダの全人格体に顕わになったのである。」
老師は、「「ダンマがブッダの人格体に顕わになり、浸透し、通徹して、全宇宙を照らし抜いた」というのです。まさにこの表現が私にはもっとも親しみを感じるのであります。この「形なきいのち」が後に仏心や仏性と名付けられるようになったと受け止めています。」
ダンマが人格体に顕わになり、浸透し、通徹して、全宇宙を照らし抜いた、というのは引用か老師が編集したかは不明だが、浸透、通徹、照らし抜くというのは、よくいわれる悟りの不二感のことだろう。ダンマが人格体に顕わになるとは、そのときの釈尊の心身をもって佛法であるということだろう。まあ、釈尊そのものが全宇宙にいきわたるということだが、一致していたということだろう。
「いのち」というひらがな3文字は老師がよく使う。他に「こころ」、「まこと」、「ほとけ」といったことばである。