管長日記「良かれと思っても」解釈20241113

「褒める」ことの弊害について、四無量心を結論として話をまとめている。
「褒めハラ」というハラスメントということばも登場したが、立場、上下という構造的な状況を前提とする行為だからだろう。
今日の話は、「師弟」、「親子」という2人の関係の話であり、そもそも関係があった上での話であって、褒められた方が調子悪くなってしまって、褒めた方が悩むというストーリー。
これに対して四無量心の「捨」が大切だ、という。
問題を「褒める」ということのストーリーは理解できるものの、そんなに単純なものでもないのではないか、と少し考えてみた。が、執着とか自分の固定的価値観、慢といったことが思われて、結局、「他者との関係の解決」というと四無量心が基礎となるのだろう。

「誉め」と「褒め」の違いも気になったが、今日はローカルな話。

禅問答のことも思ったのだが、それは心の技とも思うが、手段、原則は理性、知性による。そこにも、感情(煩惱的なもの)は存在する。「捨」は重要だろう。修行の結果として「不二」感があって「無」を得て解決することを考えると、実に難しいことである。

そこまでしなくても、日常での解決を図りたい。

なお、「良かれと思っても」という、親の気持ちのタイトルであったが、ちゃんと考えることのできるエピソードであったのが良かった。ネットの動画では、よく毒親や親のエゴといった、悪口的なことが多いように思う。それはそれで問題なのだが、いたって真面目な話で問題と解決を出してくる。このあたりに、管長日記の良さを感じる。

構成:
1.南嶺老師と師匠の足立老師との話
2.送られてくる「」記事の親子の話
3.四無量心の「捨」

■1.南嶺老師と師匠の足立老師との話

「この頃はよく褒めて伸ばすということが言われます。~私たちの修行の世界では、褒めるということはほとんどありませんでした。」
臨濟の僧堂修行は厳いとも聞くが、おそらく老師の場合、師家になっても足立老師の位置づけは変わらないということだろう。

「私の場合、先代の管長にお仕えしてきて、三十年来褒められた記憶はありません。

おそばで毎日のお料理をお作りしていた頃もありましたが、おいしいとか、よく出来ているというようなことを仰ることはありませんでした。

もうお亡くなりになると、そんなお小言のひとつひとつが懐かしく有り難く思うものです。それでも長年お仕えしていると、お料理にもお小言を仰せになりながらも、その表情や仕草でおいしいと思ってくださっていることが分かるものです。

そんな修行をしていると、おそばにいて、言葉にせずとも伝わるものがあると分かってくるのであります。}
ここまで聞くと、神通力とか潙山禅師の話とかかと一瞬思ってしまった。

「先代の管長の麦踏み」
修行僧の指導は麦を踏むのと同じだ、踏めば踏むほどよくなるのだという理論。

「麦踏み」は「麦の伸び過ぎを押さえ、根張りをよくするため、早春、麦の芽を足で踏むこと」(『広辞苑』)

「しかし、この頃はこの「麦踏み」理論は通じません。やはりところどころで褒めてあげないと難しいものです。」と、ここから本題。
このことは重要であり、麦踏みされてメンタルやられた、というのなら、まあそれはそれで問題ではあるのだが、難しさの問題点は異なる。

「褒め」について
たとえば「褒め殺し」(『広辞苑』)
①ほめて、その者を駄目にすること。「贔屓が役者を褒め殺しにする」という用例があります。
②誉め言葉を連ねつつ相手を責めること。

「なかなか褒めることも難しいものだと思うことがありました。」

■2.送られてくる「虹天」記事の親子の話
「滋賀県在住の高校教師の方から毎月「虹天」という冊子を送っていただいています。」という、この高校教師の方はどなたか明かされていない。常連というわけでもないが、管長日記で何度も出てきているように思う。

「すべての経験はこれからの幸せのために」という題で書かれた文章

その高校三年生の女性の担任となったときの話です。
その生徒は高校二年まで成績オール「5」で超優秀、努力家で、部活も熱心。
先生はその女生徒のことを「いわゆる超ストイックで完璧主義な生徒」と。
この生徒自身、「自分には才能がないので、人並みに努力してもダメ、最近は毎日四時間の睡眠」
それが5月の連休明けから、その生徒は咳が止まらなくなった。毎晩明け方まで寝られなくなり、学校も休むようになった。
内科の診察では問題はないと、大きな病院の精神科にも通うようになった。
とうとう歩くことさえ満足にできず杖をつきながらお母さんと一緒に登校する。

だんだんとそのお母様も衰弱されてきました。

七月の頃、変化がみられました。
これまで目指していた大学の受験をあきらめて、将来やりたいことにつながる別の大学を面接で9月に受ける。夏休みに部活動を引退してからは気持ちが楽になったのか咳が止まったと。

ただお母様「私は昔から、あの子ががんばって何かできたときにはよく褒めてあげました。でも、『もっとやれば、こんなこともできるかも知れないね』と、さらに上を目指させるような言葉も言っていたように思います。 何かに挑戦する場面でも、『どうする?やってみる?」と聴きながらも、ついついやらせる方向に誘導していました」という。

お母様が、自分のことを責めている。もちろんなんの悪気なく、褒めてあげていただけであった。
でも「もっとやれば」という気持ちが彼女を苦しめることにつながっていたのかもしれない、と。
その先生は「やはり、がんばれって言い過ぎたり、期待しすぎるのはよくないかもしれませんね・・・」なんて言ったりしたら、お母様はいたたまれない気持ちになると察しました。
そこでそのお母様に「「すべての経験は、その人のこれからの幸せのために必要だからこそ、天が与えてくれたんだ」と思ってみるのはいかがでしょう」と伝えた。

老子は「素晴らしい話だと感動したのです。それと同時に深く考えさせられました。これは誰も悪くないのです。
お母様も子供にとって良かれと思っています。お子さんも一所懸命に頑張る子だったのです。でもそれが自分を追い詰めることになっていたのです。」と問題点を示す。

■3.四無量心

四無量心(『仏教辞典』岩波書店)
「四つのはかりしれない利他(りた)の心」
「慈、悲、喜、捨の四つをいい、これらの心を無量におこして、無量の人々を悟りに導くこと。
<慈>とは生けるものに楽を与えること、
<悲>とは苦を抜くこと、
<喜>とは他者の楽をねたまないこと、
<捨>とは好き嫌いによって差別しないことである。
これを修する者は大梵天界に生れるので<四梵住>ともいう。」

慈は相手に何かしてあげることです。
悲は共に苦しみ悲しむ心です。
喜は、相手の幸福を共に喜ぶ心です。
最後の「捨」が難しいのです。

「捨」は「無関心、心の平静、心が平等で苦楽に傾かないこと」(『仏教辞典』)

「平静」である、相手に対する平静で落ち着いた心でいることです。ただありのままを認めるといってもよろしいかと思います。褒めることもなければ、悲しむこともないのです。

何もしないことが相手にとっては救いになる。
良かれと思っていてもそれが人を苦しめることにもなると知っておくべき。
「若し善根を作せば有相に住し、還って輪廻生死の因と成る」

『密厳院發露懺悔文』中の一句
覚鑁の著作とされる。
覚鑁(かくばん、1095-1144)、平安時代後期の真言宗の僧。真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。

良いことをしても、また、良かれと思っても、それがかえってよしあしの姿にとらわれてしまい、迷い苦しみの原因ともなるということです。
常に自分自身の心を平静に保つようにすることが大事なのであります。

「道ばたのお地蔵さんは、ただ黙って私たちのことを見守ってくれています。よいとも悪いとも言いません。ただ見守ってくれる、そんなお地蔵さんの心が「捨」なのだと思います。」

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