本覺思想の形成(5)
天台の本覚思想は、本門思想と結びついていることが特徴とされる。本門思想とは『法華経』の解釈と関り、本門とは法華経の後半のことである。なお前半を迹門(しゃもん)という。
「法華経」は全部で二十八品(ほん)からなり、各品に「序品(じょほん)第一)」「方便品(ほうべんぽん)第二」というように名前と順序が付くいており、迹門と本門のそれぞれが序分、正宗分、流通分の三段に分けて解釈される。(「二門六段」よぶ。)
『迹門』は序品第一から安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四までの前半十四品で、開三顕一(かいさんけんいつ)などが説かれる。「開三顕一」とは声聞、縁覚、菩薩がいずれも成仏できるという教えである。各種の経典において、釈尊は声聞乗・縁覚乗・菩薩乗に対して修行が異なることとなってしまったのだが、これを能力にあわせた教えとして、実は一つに帰結することをいう(「方便品第二」)。この一つの教えを一仏乗の教えという。
『本門』は従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五から普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第二十八までの後半の十四品で、「開近顕遠(かいごんけんのん)」などが説かれる。「開近顕遠」とは、釈尊は歴史上、菩提樹の下で悟りを開いたというだけでなく、実は久遠実成(くおんじつじょう)の仏、五百億塵点劫という久遠の過去に悟りを開き、永遠の未来まで人々を救済しつづける本仏(ほんぶつ)である、という教えである(如来寿量品第十六)。
中国の天台宗では迹門も本門も、それぞれに価値を認めるが、日本では本門に重きを置く。釈尊の悟りについて説いており、これを永遠の真理という本覚思想の背景、例示となるからだろう。
そして天台宗では観心が重視される。天台宗といえば天台智顗であり、そして摩訶止観であって、その止観とは坐禅冥想のことである。観心の観は止観の観である。一心三観ということばがあるが、これは天台宗の観想法である。一切の存在には実体がないと観想する空観 、それらは仮に現象していると観想する仮観、この二つも一つであると観想する中観を、同時に体得することである。
《摩訶止觀》卷5:
一空一切空,無假中而不空,總空觀也。一假一切假,無空中而不假,總假觀也。一中一切中,無空假而不中,總中觀也。即《中論》所說不可思議一心三觀。歷一切法亦如是。
また一念三千という言葉もあり、これは日常の人の心の中には、全宇宙の一切の事象が備わっているということである。
日本天台宗には天真独朗の止観がある。これは、無相の一念に悟入すれば、生死の別を離れ宇宙朗然とし、凡身そのままに大覚の域に達するということば。また天台法門の奥義を表わしたことば。天真とは諸法の本然のすがたをいい、諸法がそのまま本覚の智体であることを独朗といったもの。たとえば地獄も真如の功徳であり(天真)、また地獄にも法界を収めている(独朗)というもの。最澄が唐に渡った時に、道邃から口伝された。
止観は行であり、よって悟りを得るのである。よって観心が最重要であり、止観に関する手順詳細は置いておいて、最終的な位置付けになるだろう。
ここまでの話を整理すると、それは実は日本天台宗の教相判釈である。つまり、爾前(法華経以前)→迹門→本門→観心の順に価値が高い。これを四重興廢という。観心が最終的であることは、行の教えの傳法は口伝主義とならざるを得ない。禅の四聖句「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」や以心伝心」といった言葉を連想してしまう。
参考:末木文美士、日本仏教史、新潮文庫、1996