管長日記「息をひそめる」解釈20241219
今日の日記、久々の甲野陽紀先生が登場ということで、体操関係の話である。摂心があったためか、本当に久しぶりといった感じがする。だいたいイス坐禅、魔女トレ、そして甲野さんでの健康体操関係になっている。たまに、医療関係で健康の話も出る。
呼吸の話がでたが、禅ほど呼吸にこだわる仏教もないだろう。そもそも安般守意經もあったが原始佛教から、天台智顗、そして日本に来たという印象がある。また公案や禅関係の逸話ではあんまり呼吸の話しは出てこない。
禅と言っても、曹洞宗はあまり呼吸のことは言っていないような気がする。只管打坐なのだからそうだろう。坐禪儀の違いのせいかもしれない。
日常のなかで、ちょっと真面目に体の使い方を考えてみることはいいことだろう。そんなふうにバランスをとることを禅では狙うのかもしれない。
構成:
1.河野さんとの1日
2.一動作一注意
3.呼吸
■1.河野さんとの1日
「先日は甲野陽紀先生にお越しいただいて、講座を開いてもらいました。その日は午前中に、出版社の企画で甲野さんと二時間少々対談をさせてもらいました。そして午後から三時間講座を行ってもらい、甲野さんには長い時間学ばせてもらいました。」
正しい姿勢というと、すぐに動ける姿勢、すなわち腰が立っている姿勢というのは固定。
「甲野さんは一九八六年のお生まれですから、私よりも二十二歳もお若いのですが、つくづく人生というのは、生きた長さだけではなく、深さや濃さがあると感じます。あの甲野善紀先生のお子さんとして生まれ、独自の感性をもってお父様のおそばで学ばれ、その独自の感性を生かして活動されています。」
和器出版社の『身体は「わたし」を映す間鏡である』記載プロフィール
「身体技法研究者。武術研究者・甲野善紀氏の武術指導のアシスタント、演劇制作スタッフなどを経験した後、 独立。誰もができる日常動作の身体の動きをモチーフに、特定の分野や流儀、流派にとらわれない立場で身体技法の研究を始める。達人や名人と呼ばれるほどの技量を持つ武術家や職人などの技を観察・分析する研究を基盤に、さまざまに変化する身体の動きを、注意の向け方や言葉の使い方などとの関係から読み解き、そのエッセンスを日常に役立つ技法として提案している。 その斬新なアプローチは、スポーツや介護、楽器奏法、教育関連など、さまざまな分野への応用が可能であることから、多くの専門家からも注目されている。」
「スポーツ選手、アスリートから介護の現場までいろんなところで教えておられるのですが、お寺で修行僧を相手にしているのは、円覚寺だけだろうと察します」とちゃんと老師は気付いているようだ。魔女トレの西園美彌さんのXをみるとバレエが基本だろう。だいたいスポーツ関係が中心になることがわかっていて、そこに禅、坐禅、結跏趺坐を狙ってくるとは思えない。しかし実は、、、といった展開があると面白いとも思う。
それと、禅は体を動かすことが基本的に好きなような気がする。おそらく作務のためだろう。あと真言宗もそうだ。これは歩き回るような修業が多いからかもしれない。このことは知っておくといいかもしれない。健康は重要なことである。
■2.一動作一注意
「身体の動きを、注意の向け方や言葉の使い方などとの関係から読み解き」とありますように、まず甲野さんの講座の基本は、一動作一注意です。
「「一動作一注意」とは、「ある動きをするときには一つのことに注意を向けることが大切」という意味です。たとえば「立つ」という動作でも、指先なら指先という一つに注意を向けて立つ場合と、いくつものことへ注意を向けて立つ場合では、明らかに身体の安定感が変わってきます。」
これは、上座部仏教では、全ての動作を意識する、といったことが言われていたと思うが、重要なことだろう。
「私は講座のとき、指先に注意が向けられてしっかりとした立ち姿勢がとれている方に、半ば冗談のように「それで、今日の昼食は何を食べました?」と尋ねることがあるのですが、そう聞かれた途端、しっかりしていた立ち姿勢がぐらりと揺れてしまうのは、一動作一注意の状態が崩れた、ということでもあると私は理解をしています。」
■3.呼吸
「今回は前半、呼吸について学びました。」
学ぶ、というのは経験、体験をベースにしていることばだろう。
教育を受ける、覚える、訓練する、といったことは、それらを通して「学ぶ」ことはあるのだが、個々、その個別の事項については、別の語が表すだろう。
「修行僧たちから呼吸について学びたいという要望があった為です。しかし、甲野善紀先生は、呼吸法に触れないし、呼吸は考えなくてよいと仰っていたそうです。呼吸は必要な分、意識しなくてもその場に現れるのだというのです。そして呼吸は意識した瞬間に不自然な呼吸になると仰っていました。」
これは禅問答になる。
老師は逆説的に見る。だから禅問答になり得る。
「これは呼吸法にとらわれている人にとっては大事なことであります。自然な息づかいが一番よろしいのです。しかし、その自然な息づかいに気づかせるために、わざと呼吸法を行っているのではないかと思っています。」
さらに、「身体の動きを、注意の向け方や言葉の使い方などとの関係から読み解き」、「言葉の使い方」であって、これは意識、つまり制御、予測という働きに結びつけるところをいう。
「呼吸については吐く、吸う、そしてその間があります。間の呼吸というのは息を止めるのかと思いがちであります。よく息を吸って、止めて吐いてと呼吸法を行うことがあります。
以下、老師の考察となる。
息を止めて歩くと、これは橫から押されたりすると弱いものです。ところが息をひそめて歩くというと、しっかり安定するのです。止めると潜めるという言葉の使い方で変わるのです。息を止めて荷物を持つというのと、息を潜めて荷物を持つというのでは体の感覚が違ってくるのです。止めるというと完全に閉ざしてしまうようになってしまいます。潜めるはまた感じが違います。
「潜める」とはどういうことなのか、『広辞苑』で調べてみると、
「①かくす。しのばせる。②静かにする。ひっそりとする。③控え目にする。④平静にする。冷静にする。⑤内に蔵している。」
完全に止まっているわけではないのです。息を吐いて拳を押し出します。息を吸って拳を押し出します。どちらが力が入るかというと、私などは吐いて出した方が力強くなります。(逆の人もいる。)息を吐いて力を出せる人は、外に注意をむけて吐くと力強くなります。逆に息を吸って力を出せる人は、腹や胸など自分に注意を向けて吐くと吐きやすいというのです。
これは、呼吸の吐く、吸うの特性なのだろう。そこではなく、腰を立てる、に因んで、潜めるをいう。
「よい姿勢はいつでも動ける姿というように、息を潜めていると、いつでも吸えるしいつでも吐き出せるのです。動きを内側に保っている姿だと感じます。ひっそり息をひそめて坐ってみるというのはいいものであります。」