管長日記「大木に習う」解釈20241010
坂村真民氏の詩を前面に引用した話である。終盤にいくと、昨日の日記の話を展開していることだとわかる。お寺に木を植える意味が説かれる。「大地に深く根を張って伸び続けるというのは、坐禅そのものだと思います」というのだ。故に「大木に習う」と。
構成
1.坂村真民の詩「一本の道を」(『坂村真民全詩集』第二巻)
2,同上「大木」(同上)、坂村真民8歳の話
3.同上「大木をたたく」「大木の幹」「大木と菩薩」(同上)
4.同上「大木を仰げ」「大木」(『坂村真民全詩集』第三巻)
5.開山仏光国師が植えた円覚寺の柏槇の大木
1.~4.の詩の全文は、本記事の後ろで、一応コピペしておく。
■5.
臨済禅師に関する話は、臨濟録の行録第二項にある。
景徳傳燈録は、
《景德傳燈錄》卷12: 懷讓禪師第四世 前洪州黃蘗山希運禪師法嗣
師與黃蘗栽杉。黃蘗曰。深山裏栽許多樹作麼。師曰。與後人作古記。乃將鍬拍地兩下。黃蘗拈起拄杖曰。汝喫我棒了也。師作噓噓聲。
老師は「松や柏のように常緑樹であることが大事なのです。色が変わることのないものです。」という。だいたい、葉が凋まない、散らない、といった言い方をするが、「色が変わることのないもの」と。微妙な違いともいえるが、この文脈では効果的だろう。
「仏光国師の語録には、「允賢(いんけん)二上人、松を栽うるを謝する上堂」という一節があります。
二人の禅僧が松や柏槇を栽えてくれたのに、仏光国師が御礼を言われた説法です。
そのなかでも、黄檗禅師のところでは臨済が松を栽えたが、巨福山建長寺では松を植え、柏槙を植えるのだと書かれています。」
とある。
佛光國師語錄卷第三
謝允賢二上人栽松上堂。黃檗會裏。巨福山前栽松種栝。
公案宛然。已見龍蛇影動。重重翠蓋。參天和風。四合禽鳥聲喧。
釅茶三五。盌意在钁頭邊參。
黄檗のように、巨福山の前に松、栝を植えた、と。後半は公案としているようだ。「栝」は「たきぎ」と読むらしいが、ヒノキということでもあるようだ。
一方「柏槙」はイブキともいい、ヒノキ科ビャクシン属の常緑針葉高木とあった。
巨福山は建長寺のことらしい。現在の建長寺のたくさんの柏槇の大木も、そのころのものかもしれないと想像する。動かないが、みずみずしく、いつもの伸びようとしながら立つ、ということは緑の葉であることから言えるのだろう。これを坐禅という。
一通り聴いた後、読んだ後にもう一度、坂村真民の詩を見直してみるとよいのかもしれない。詩以上のところとして、坐禅の用が、木々の存在に投射されているようにも思う。もしくは、不二感なのかもしれないし、父母未生已前本來面目かもしれない。
■坂村真民の詩
一本の道を
木や草と人間と
どこがちがうだろうか
みんな同じなのだ。
いっしょうけんめいに
生きようとしているのを見ると
ときにはかれらが
人間より偉いとさえ思われる
かれらは時がくれば
花を咲かせ
実をみのらせ
自分を完成させる
それにくらべて人間は
何一つしないで終わるものもいる
木に学べ
草に習えと
わたしは自分に言い聞かせ
今日も一本の道を行く
大木
Ⅰ
父が死んだ
玉名の家の広い庭には
樹齢六百年にもなんなんとする
いちいの大木があった
わたしは毎日
この木を仰いで
思いを馳せた
今にして思う
わたしが大木を好むのは
少年の頃からすでに木の精が
わたしに入り込んでいたのだと
わたしは旅に出て
大木を見るのが
何より嬉しい
2
わたしは小さい時から
お寺やお宮が好きだった
それはお寺やお宮には
たいてい大きな木があり
それがわたしには
神や仏のように
思われてならなかった
わたしは八歳で父を失い
それを境として
生活も急変した
履くものも
自分で作らねばならなくなり
学用品も
自分で働いて買わねばならなかった
そうした孤独なわたしに
いつも父のように力となって
励ましてくれたのが
大木たちであった
坂村という姓のように
坂ばかりの山村で
独りぽっちのわたしには
山の木たちだけが友であった
わたしは大木に近づき
大木と話をしているときが
一番たのしかった
3
大木たちが
わたしに教えてくれた
一番忘れられない話は
根の大事さということであった
目に見えない世界と
目に見える世界とがある
美しい葉や
美しい花や
美しい実は
見える世界であるが
それらをそうさせる
一番大切なのは
大地に深く根を張り
夜となく昼となく
その木を養っている
幾千幾万の
根の働きということであった
わたしは大木の下に坐して
そうした話に聞き入り
元気をとりもどしては
また歩き出して行った
目をつぶると
それらの木々たちが
いまもわたしに話しかけてくる
大木をたたく
大木に近寄り
大木に触れ
大木をたたく
ああ手に伝わってくる
大木の情感よ
大木は身をふるわせ
わたしに呼びかけ
わたしに訴える
その一瞬の一致(ユニテ)よ
大木の幹
大木の幹にさわっていると
大木の悲しみが伝わってくる
孤独というものは
猛獣にすらあるものだ
万年の石よ
沈黙の鬱屈よ
風に泣け
月に吼えろ
大木と菩薩
大木は
いつも瑞々しい
それは
いつも伸びようと
しているからだ
菩薩は
つねに若々しい
それは
つねに夢を持って
いられるからだ
大木を仰げ
堪えがたい時は
大木を仰げ
あの
忍従の
歳月と
孤独とを
思え
大木
木が美しいのは
自分の力で立っているからだ
広い屋敷には村一番の
いちい樫の大木があった
その頃がわたしの
一番幸せな時であった
いちいの実のおちる音を
父のそばに寝てじっときいていた
八つのとき父が急逝し
流転の人生が始まった
そんな時いつもわたしを励まし
力づけてくれたのは
独りで立っている大木であった