管長日記「十三歳で「既に老いたり」」解釈20241211

明恵上人みょうえしょうにんの話題。老師は和歌山の出身だから、よく話題にするという。確かに、心地覚心(法燈国師)もよく出ていたように思うし、子供の頃の目黒絶海老師の話もよく出た。実際に和歌山に行くことも年に1,2回あるのではなかろうか。
明恵浄人は臘八示衆第六夜で「建仁開山千光祖師入宋時。偶中暑患癉。有一老翁爲飮茶。癉速治。因齎茶實來貢禁廷。種之於宇治縣。又贈明惠上人。上人亦種之於栂尾。故以千光明惠爲茶之祖矣」と、栄西禅師から送られたことが書かれていた。臘八摂心も後半のつらいときで、眠気にお茶が良いといったことだった。それと文溟和尚の修行の話だった。

構成:
1.「老いたり」と感じる年齢
2.明恵上人について
3.明恵上人の純粋さ、命のこと
4.明恵上人の純粋さ、道の為に耳を切る
5.明恵上人の純粋さ、皆仏心を備えた尊いもの
6.明恵上人の純粋さ、只現世に有るべき様にて有らん

日記という散文てきなものであるが、明恵上人の、無常観、不淨観、皆尊い、唯現世に有る、といった基本的な態度とか、思想のようなものが、整理されているのではなかろうか。

■1.「老いたり」と感じる年齢

「今年入ったばかりの修行僧に、自分はもう年老いたと感じることがありますかと聞くと、さすがに二十代の青年はそんなことはないと答えます。人は何歳頃から、「老いたり」と感じるものでしょうか。五十代からか、はたまた六十代からか、いろいろあるでしょう。」

身体が弱くなった、太りやすくなった、徹夜ができなくなった、などか。

「「明恵上人という方は、なんと十三歳の時に、「今は早十三に成りぬ。既に年老いたり。死なん事近づきぬらん。」と心に思ったのです。」実に、これが無常観なのです。体の機能が衰えてきてようやく老を感じるというものではありません。」

ネットに次があった。
「梅尾明恵上人伝記 巻上」より:
「十三歳の時、心に思はく、今は早(はや)十三に成りぬ。既に年老いたり。死なん事近づきぬらん。老少不定(ふぢやう)の習ひに、今まで生きたるこそ不思議なれ。(中略)自ら鞭を打ちて、昼夜不退に道行を励ます。或る時は後(うしろ)の山の、木の空(うつほ)に木の葉深く積れる上に常に行きて座し、或る時は見解(けんげ)おこる様、かゝる五蘊(ごうん)の身の有ればこそ、若干(そこばく)の煩ひ苦しみも有れ。帰寂したらんには如(し)かずと思ひて、何(いか)なる狗狼(くらう)・野干(やかん)にも食はれんと思ひ、三昧原(さんまいはら)へ行きて臥したるに、夜深(ふ)けて犬共多く来りて、傍(そば)なる死人なんどを食ふ音してからめけども、我をば能々(よくよく)嗅(か)ぎて見て、食ひもせずして、犬共帰りぬ。恐ろしさは限り無し。此の様を見るに、さては何(いか)に身を捨てんと思ふとも、定業(ぢやうごふ)ならずは死すまじき事にて有りけりと知りて、其の後は思ひ止まりぬ。」

「谷川俊太郎さんが、「鋏」という詩で、鋏のことを、
「錆びつつあるものである、
鈍りつつあるものである、
古くさくなりつつあるものである。」
と詠ったように、新しく出来た時から、実は鋏は、錆びつつあり、鈍りつつあるものなのです。
人も、生まれたそのときから、老いつつあるものであり、病みつつあるものであり、死につつあるものなのです。これが無常ということなのです。十三歳だから、死の恐れや不安などないということはないのです。私は、子供の頃から死ということを考えてきましたので、はじめてこの明恵上人の言葉に触れた時には、自分の思いと同じだと共感したものでした。」

■2.明恵上人について

臘八示衆のことから、「明恵上人は、栄西禅師よりは三十二歳もお若いのです。」

一一七三(承安三)ー一二三二(貞永一) 鎌倉時代の華厳宗の僧。明恵は号。諱は高弁。紀伊(和歌山県)の人。平重国の子。幼くして両親をなくし、高雄の神護寺に登って文覚に師事、一六歳で東大寺で受戒、以後主に華厳を学ぶ。二十三歳の時、紀伊の白上峰に籠り、以後一時高雄に戻ったほか、三十四歳までほとんど紀伊で過ごした。一二〇六年(建永一)三十四歳の時、後鳥羽院より高雄の奥の栂尾の地を賜わり、高山寺を建てて華厳の道場とした。以後この地において道俗の教化に努め教団を樹立した。(岩波書店『仏教辞典』)

wikiを見ておく。
明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される[注釈 1]。
承安3年(1173年)1月8日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。
治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ[1]。文治4年(1188年)に出家、東大寺で具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望された[1][2]。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している[3]。
しかし、21歳のときに国家的法会への参加要請[注釈 2]を拒み、23歳で俗縁を絶って紀伊国有田郡白上に遁世し、こののち約3年にわたって白上山で修行をかさねた[4]。この遁世した時に詠んだ和歌が「山寺は法師くさくてゐたからず心清くばくそふく(便所のこと)にても」である。この頃、人間を辞して少しでも如来の跡を踏まんと思い、右耳の外耳を剃刀で自ら切り落とした。

■3.明恵上人の純粋さ、命のこと
「私は、この明恵上人ほど純粋な思いのお坊さんはいないと思って尊敬しています。」

「十三歳で既に老いたり、死の時が近づいたと思った明恵上人は、今まで生きてこられたことこそ不思議だと仰っています。
ひたすら修行をしなければならないと思い、いろんな見解が起きてくるので、この体あるから、いろんな考えが湧いてくるのだから、このまま死んでしまった方がいいと思われました。
そして死体が捨てられているようなところで、橫になって、獣に食われてしまおうと思ったのでした。
夜中に、野犬などが近くの死体を食べている音がします。
そこで橫になっていると、犬などが近づいてきて、上人のにおいを嗅いだりしますが、食べずに去ってゆきました。
明恵上人は、吾が身を捨てようとしても、定められた命が尽きるまでは死なないのだと気がつきました。」

この純粋さは、先にあったとおり、無常観である。

■4.明恵上人の純粋さ、道の為に耳を切る

「壮絶なのは耳を切ったという話です。お釈迦様が御遺戒で、弟子達に、「汝等比丘、当に自ら頭を摩して、已に飾好を捨て、壊色の衣を著すべし」と仰せになりました。頭を剃って、壊色という黒や紺や茶という質素な法衣を着るのです。それは飾るこころ、傲る心を捨てるのです。
しかし、末世になると、頭を剃っても、そのきれいに剃った頭を誇るようになります。壊色の法衣をどこかで自慢するようになります。これは修行僧でもよくあることです。たしかに麻や木綿の粗末な衣を着ています。つぎはぎになっていることもあります。しかし、心のどこかに、この粗末な法衣を誇るところがあるものです。これも慢心なのです。
明恵上人は自分自身それが許せませんでした。末世の僧は頭を剃り、壊色の法衣を着るくらいではだめだ、もっと身をやつさないといけないと思ったのでした。「道の為に身をやつさば、眼をもくじり、鼻をも切り、耳をもそぎ、手足をも断ち尽すべし。」というのです。しかし、目をつぶしてしまうと、お経を見ることができなくなります。鼻をそいでしまうと、鼻水が垂れてしまい、お経を汚してしまうかもしれません。手を切ってしまうと、印を結んだりできません。ただ耳は切ってしまっても聞こえるだろうと思ったのでした。そこで仏前にお経をあげて、自ら右の耳を切ったというのです。
血がほとばしり、本尊様や、仏具などにも飛んだのでした。すさまじい話であります。そこまでして純真に仏道を求められたのでした。」

不淨觀だろう。上座部の、特に釈尊の時代の話に出てくるような印象にもなる。仏教の原理的なところを持っていたのだろうか。

■5.明恵上人の純粋さ、皆仏心を備えた尊いもの
「自分自身に対してはそれほど厳しい明恵上人ですが、蟻や虫、犬や鳥、お百姓さんに到るまで皆仏心を備えた尊いものとして、犬が橫になっているそばを通るときでも尊い人に対するかのように丁寧に頭を下げて身をかがめて通ったというのです。壁を隔てていても人が橫になっている方向に足を伸ばすこともありませんでした。またあるときに坐禅していると、後ろの竹藪で小鳥が襲われているから助けるようにと侍者に告げました。
侍者が裏に行ってみると、果たして鷹が雀を襲っていたのでした。そこで追い払ってあげたというのです。また手桶に虫が落ちているから助けてあげてと侍者に言われて、侍者が行ってみると蜂が手桶に落ちていて救ってあげたという話もあります。

■6.明恵上人の純粋さ、只現世に有るべき様にて有らん
「明恵上人は、「我に一の明言あり。我は後生資からんとは申さず。只現世に有るべき様にて有らんと申す也。」と仰せになって、「あるべきようは」の七寺を大事にされました。僧は僧としてのあるべきようをひたすら求めた生涯でした。仏弟子としてふさわしい生き方を生涯かけて求めたのです。
遺訓の中に、「凡そ仏道修行には、何の具足も入らぬ也。松風に睡りを覚まし、朗月を友として、 究め来り究め去るより外の事なし。」という一語があります。

「私もかつて修行時代に幾たびか栂尾の高山寺を訪ねて明恵上人のことを思ったものでした。とてもとても明恵上人には及びもしませんが、お慕いする気持ちだけは変わりないものです。若い修行僧たちにも、明恵上人の話は心に響くものがあったようであります。」

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