驢鞍橋での十牛図の話

コンパクトで分かりやすいと思う。原文は漢字が難しいので、今の使い方にしてみた。

鈴木正三『驢鞍橋』、 鈴木大拙、岩波文庫、1948、p.123
巻中 七九

十牛図抄。尋牛一。志を励まし心法を求の義也。見跡二。経文語録の上に道理を明かす也。見込みよき人は、見性に似たるほどの語を吐くべし。見解のある人は、この邪正を知るべし。見牛三。聞聲悟道見色明心の義ぞ。この心は万物の上に備わったぞ。然れどもいまだ我れには従わぬぞ。得牛四。ここでは心、牛に綱を付けて従へんとする也。この間の修行、久しかるべし。この牛、妄想の業を離れること難し。學者よく知るべし。心を従えずんば、悪趣を出づること難し。大切の修行ここに有り。功を尽くすべし。牧牛五。この牛、隨分我れに従うといえども、一念起これば、かけ出すぞ。心をゆるせば、牛が狂うぞ。堅く手綱を引いて禅定に入れ。弥勒功を尽くさずんば叶い難し。騎牛帰家六。ここの修行は、牛と我れと一般になったぞ。
我れは牛にまかせて障りないぞ。牛忘存人七。ここは無法の人と成ったぞ。然れども我れは残ったぞ。法は尽きても、我れはまだ有るものぞ。人牛倶忘八。法も無く人影も無し。虚空一枚ぞ。返本還源九。我れ無き人の物を見るは、境ばかりあり。万事をなすも、我れ無ければ其の業ばかりぞ。然る間境ばかりだぞ。入鄽垂手十。ここは我も無き人の底を図したぞ。この人は迷悟凡聖一体の処ぞ。何をなしたも障りなき人ぞ。悪も善となったぞ。これによって、「酒肆魚行化令成佛」とあるぞ。師更曰く、十段目に善悪の沙汰は仕度もなけれども、「酒肆魚行化令成佛」とあるによって云うと也。

酒肆魚行化令成佛:酒肆(しゅし)魚行(ぎょこう)、化(け)して成仏(じょうぶつ)せしむ。検索すると、「開悟した者は高居聖境にとどまらず、百尺竿頭を目指して、正位から転身して現実社会に身を置き、利他行を成すこと」と。これはよいが、「開悟した後は、高居聖境にとどまらず、現実社会に身を置き、酒肆や漁行で佛法を弘揚し、人々を成仏に導く」というのは、ちょっと違う気がする。
酒肆は居酒屋、魚行は漁とするなら、そんなことをやっていても、成佛させられる、といったことなのではなかろうか。

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