管長日記「無文老師の『般若心経』を読む」解釈20241129
「無文老師の『般若心経』を読む」のタイトル。山田無文老師と摩訶般若波羅蜜多心経である。
禅文化研究所の広報、宣伝的な目的と思うが、Youtubeに動画を1年前から上げている。墨蹟は見る機会が無かった上、良さがよくわからないところもあったのだが、この紹介のお陰で多少興味を持てるようになった。仙厓義梵の話もあったと思う、また室町期の渡来僧、白隠の弟子というのもあったか? 自分で調べたものが混じっているかもしれない。
構成:
1.禅文化研究所のYoutube動画、墨跡紹介
2.書籍紹介の新企画
3.摩訶
4.般若
5.波羅蜜多
6.心経
7.〆の話
般若心経は、そのタイトルだけでその気になれば1時間喋れるだろう。
無文老師の書籍もよい本だし、禅文化研究所でもベストセラーなのではなかろうか。
■1.禅文化研究所のYoutube動画、墨跡紹介
「禅文化研究所の所長に就任して始めたことが、YouTubeでありました。
毎月、墨蹟の紹介と書籍の紹介をしてきました。もう一年になります。」
墨蹟紹介は、円覚寺の誠拙周樗禅師の「思無邪」という一幅を紹介。
書籍紹介もずっと続けてきたが、今月から新たに、「山田無文老師の『般若心経』を読む」を始めた。
■2.書籍紹介の新企画
山田無文『般若心経』禅文化研究所を読み進めるという企画。
「無文老師が説かれた『般若心経』は、禅文化研究所の書籍の中でもとても人気のあるものです。」
「般若心経について、無文老師がどのように解説されているか、一句ごとに般若心経の本文と、無文老師の解説を示して、それに対して私が少し言葉を加えるというものです。
既に第一回が公開されていますので、関心のある方はご覧ください。」
筆者は最もバランスの良い本だと思っている。
般若心経の本は多いが、佐々木閑の本はかなり変わっている印象があった。上座部全否定の革命のお経、といったようなことが書かれていたのではなかったろうか。
■3.摩訶
「第一回では、経題の『摩訶般若波羅蜜多心経』というところを読みました。
まずは「摩訶」についてです。」
「摩訶には大、多、勝の三義有り」、これには大、多、勝の三つの意味があるといわれております。
摩訶般若は、普通、大般若と訳しておりますが、摩訶には「大」という意味だけではなく
「多―非常に数が多い」
「勝―すぐれている」という意味もあるのです。
ですから大般若と訳してしまえば、「多」と「勝」の意味が落ちてしまうから、摩訶というのであります。摩訶は、ただ大きいだけではなく、その中にはいろいろな複雑な内容があり、しかも、その内容が非常にすぐれておる。それが摩訶であります。」
■4.般若
次が「般若」です。
「その智慧は分別の知恵ではなく、相対的な知恵ではなくて、絶対的な智慧、空のわかる智慧、無のわかる智慧である。
私どもの分別の出てこない前の、生まれたままの意識の本体、アともウとも意識の出てこない先の、ちょうど白紙のような、池の上に波の立たぬ静けさのような、 そういった人間の根本智、分別の出てこない先の智慧。
それが般若の智慧であります。」
根本智という言葉は、分別、無分別に関連する。
「無分別」:「分別から離れていること。主体と客体を区別し対象を言葉や概念によって分析的に把握しようとしないこと。この無分別による智慧を<無分別智>あるいは<根本智>と呼び、根本智に基づいた上で対象のさまざまなあり方をとらわれなしに知る智慧を<後得智>と呼ぶ。」(岩波『仏教辞典』)
「無分別の智慧が、根本智であり、般若の智慧であります。」
■5.波羅蜜多
「波羅蜜多とは、翻訳すると到彼岸、向こうの岸に行く、理想の国に行くということであります。
こちらは暑くて仕方がないが、向こうの岸に渡ったら涼しい国がありはせんか。こちらでは年中戦争ばかりしておるが、あちらの岸に行ったならば戦争のない国がありはせんか。こちらは泥棒がおり、詐欺があり、火事があったり、いやなことばかりだが、向こうの岸に渡ったならば、そういうことのない平和な国がありはせんか。こちらの国では明けても暮れても税金ばかりとられておるが、向こうの国にいったなら税金のない国がありはせんか。このように、向こうの岸はひとつのあこがれの世界であります。
こういう般若の智慧によって、お互いのこの苦しい暮しにくい現実の世界を彼岸にしていく。現実がそのまま彼岸だと悟りを開いていく。彼岸というものは河の向こうにあるのではなくして、実はお互いの脚もとが彼岸であった。
向こう側から見るならば、こちら側が彼岸である。お互いの現実をこのままにしておいても、そこに立派な悟りを開くならば、ここが立派な彼岸になれる。そうわかることが「般若波羅蜜多」ということであります。」
「波羅蜜多は、完成とも訳されますが、到彼岸とも言います。無文老師は「到彼岸」ということで説いてくださっています。」
実は、ここのところ、言葉として、やや難しいところがある。よく、波羅蜜は、六波羅蜜という語があるように、修行の項目や整理された大乗の特徴といったところがある。
wikiには次のように、語源、訳の解釈が示される。
波羅蜜(はらみつ、巴: Pāramī、 パーラミー、梵: Pāramitā、 パーラミター)とは、仏になるために菩薩が行う修行のこと。六波羅蜜と十波羅蜜がある。
到彼岸(とうひがん)、度(ど)、波羅蜜多(はらみった)などとも訳す。
サンスクリット文法による語源的解釈では、Pāramitā を、"pāramī"(「最高の」を意味する "parama" の女性形)+ "-tā"(抽象名詞をつくる接尾辞)と分解し、「最高であること」、「完全であること」と解釈する[5]。しかし中国およびチベットなどの北伝仏教の伝統的な解釈では、これを"pāram"(彼方、"pāra" の 対格)+ "√i"(「行く」を意味する動詞)+"tā"(接尾辞)という語彙の合成語と解釈して、「彼方に行った」すなわち此岸(迷い)から彼岸(覚り)に到る行と解するのが通例である。例えば、漢語訳における「度(ど)」、「到(とう)彼岸」などの訳語や、チベット語訳の「パロルトゥ・チンパ」(pha rol tu phyin pa)も「パロルトゥ」(pha rol tu)が「pāram」、「チンパ」(phyin pa)が「itā」に相当する語である。
中観派のハリバドラやチャンドラキールティも"pāram"(彼方、"pāra" の 対格)+ "itā"(「行く」を意味する動詞"eti"の過去分詞女性形)と解釈し、「彼岸に到る」という伝統説を支持している。
ただし、般若心経のタイトルの「波羅蜜」の説明を「修業」としてしまうと、お経の内容が無いって来ない。空(無)をひたすら主張していき、よって苦がない。行こう、行こう、彼岸へ、といったことなのだから。
■6.心経
「心経とありますが、この心にも解釈が三通りあります。
心というのは肝心かなめということ、大切なということだという説。
心とは心性、 人間の心、精神をいうのだという解釈。
心とは精神力、神力、人間離れをした非常に強い精神力だという説。
こういう三通りに解釈されておりますが、普通は肝心かなめの、という意味に解釈してよいと思います。
そういたしますと、摩訶般若波羅蜜多心経とは「大きな智慧の彼岸に到達する肝心な経典」ということになります。
なにぶん二百七十二文字という短い経典でありますが、その中に仏教のもっとも肝心な真理が盛られておると思うのであります。」
■7.〆の話
「YouTubeですので、毎回十分少々で学べるようにしています。
研究所の方が上手に編集してくれていて、テロップの見やすくなっています。」
「十一月二十四日の毎日新聞に掲載された海原純子先生の「新・心のサプリ」には、「分断という危機」という題であります。
アメリカでの黒人差別の問題から、我が国での最近に話題に触れておられます。
「相手の発言を許せないと感じ、相手を否定し、そうした発言をよしとする人を憎み否定して分断が起きる。」と海原先生は書いてくださっています。
般若の智慧は、分別しないのです。
分断の危機が説かれる今こそ、般若の智慧を学ぶべきではないかと思っています。」
無文老師の言葉を、現在に置き換えて示される。