管長日記「若獅子」解釈20241227
致知出版社は20~35歳の若者の勉強会を開催しているようだ。致知若獅子の会とよぶ、「人間学」を学ぶ勉強会という。ちなみに致知とは、朱子学で知識をきわめて物事の道理に通じること、 陽明学で良知を最大限に発動すること(格物致知(かくぶつちち))とあるが、知を致す、ということでわかる。そもそもだが、儒教など中国古典思想や仏教は人の活動の実践を前提としている。
サムネイルがいつもと違って若い。また参加者は少なくとも100人程度は写っていて、会場には200人くらいいるのではなかろうか。
その20代、30代の若者が、仕事や会社、事業でどのように実践していくのか、興味がある。
『大学』を皆で斉唱して十牛図の講義をしたとのこと。
「90分お話して、質問を受けました。質問もまた熱心に取り組んでおられる方ならではのものばかりでした。
それから更に会場で懇親会となりました。大勢の方々と名刺交換をさせてもらいました。今のこの時代に、人間としてどう生きるべきか真剣に学んでいる皆さんとご縁ができました。これはまた実に有り難い若獅子の勉強会でありました。」
構成:
1.「致知若獅子の会」
2.勉強会
3.『大学』の三綱領と、八条目
4.『大学』のはじめの部分の素読
■1.「致知若獅子の会」
致知若獅子の会とは、月刊誌『致知』を読んで学ぶ二十代から三十五歳までの若者が、人間いかに生きるべきか、人間学を学ぶ勉強会。
その、関西致知若獅子の会は、毎月一度有志三十名ほどが集まって勉強している。
老師に、関西致知若獅子の会の世話人の方から講演依頼の手紙が、今年二月頃に来た。
「お心のこもったお手紙にこちらも感激して、なんとか行ってあげようと思い」、つい先ごろ、「山口の朴の森の講演から一度鎌倉に帰って明くる日また新大阪まで出かけた」とのことである。
「年末、文字通りの「師走」であります。」
こうなると、休むための技というものも禅の研究対象かもしれない。
■2.勉強会
十牛図の講義依頼だという。十牛図については、花園大学の講座や、円覚寺のyoutubeにもあるように、得意だろうし、また禅を始めたころにすぐに出会う本。語録でも論でも公案でもない、その他に分類されるのだろうが、絵巻とか禅画一式といった感じかもしれない。住鼎州梁山廓庵和尚十牛圖頌といい、全文でもA4用紙1枚に収まる程度のもの。頌は古則公案になるかもしれない。
老師は「てっきり、その若獅子の会で、二十代三十代の方々三十名ほど」の参加と予想していたようだが、関西若獅子の会と大阪府社内木鶏経営者会との共同開催で、特別に人数は多かったようだ。
全国社内木鶏会経営者会の会長、白駒妃登美先生も参加、と。
白駒妃登美(しらこまひとみ)さんは株式会社ことほぎ代表。確か、佛光国師の偈についてお話したといったことを、過去に日記で言っていたような気がしたが。
■3.『大学』の三綱領と、八条目
「この勉強会は『大学』の教えが基本になっている」とのこと。
老師は次のように整理
大学は、大人の学であります。人の上に立ち、周りに影響を与えることのできる徳の高い人を大人と言います。『大学』の三綱領と、八条目の説明がありました。
その時の解説では、三綱領は、まずは「明明德」 明徳を明らかにすることで、「生まれながらに与えられた強みを発揮する。」
次は「親民」で、「誰とも親しく交わり徳を発現するように導く」。」
「止至善」は「最高の状態を維持するように努める。」
そして三綱領を要約して、「生まれ持った徳性を発揮し、多くの人にその人の良さを気付かせて、組織人を常に高みへ導く。」
八条目については「世の中を良くするプロセス」として、
まず「格物致知」 「実践を通じて生まれながらにもっている良心に従って生きれる人間になりましょう」
それから「誠意正心」 「誠実な言動を行い、素直な心になりましょう」ということです。
それから「修身」、「自己修養に努めて徳の高い人物になりましょう」
「齊家」 「家族の手本となり正しい道を示していきましょう」
「治国」は「国を良い状態で収めていきましょう」
そして最後に「平天下」 「世界中を平和にしていきましょう」
要約しますと、「実践を通じて良心に従って行動することができる人間となり、誠実に仕事に取り組むことで心が磨かれていく。この正しい判断の積み重ねで、家庭 組織 国 世界全体が良くなっていく。」
■4.『大学』のはじめの部分の素読
大学の道は、明徳を明らかにするに在り。
民に親しむに在り。至善に止まるに在り。
止まるを知りて后定まる有り。
定まりて后能く静かなり。静かにして后能く安し。安くして后能く得。
物に本末有り。事に終始有り。
先後する所を知れば、則ち道に近し。
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の國を治む。
其の國を治めんと欲する者は、先ず其の家を齊う。
其の家を齊えんと欲する者は、先ず其の身を修む。
其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす。
其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意(こころばせ)を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。
知を致すは物を格すに在り。
大学で学問の総しあげとして学ぶべきことは、輝かしい徳を身につけてそれを〔世界にむけてさらに〕 輝かせることであり、〔そうした実践を通して〕 民衆が親しみ睦みあうようにすることであり、こうしていつも最高善の境地にふみ止まることである。
ふみ止まるべきところがはっきりわかってこそしっかり落ちつくということになり、しっかり落ちついてこそ〔ものごとに動揺しないで〕平静であることができ、平静であってこそ安らかになることができ、安らかであってこそものごとを正しく考えることができ、正しく考えてこそ[最高善に止まるという〕目標も達成できるのだ。
ものごとには根本と末端とがあり、また初めと終りとがある。
[そのことをわきまえて] 何を先にして何を後にすべきかということがわかるなら、それでほぼ正しい道を得たことになるのである。
古きよき時代に、輝かしい聖人の徳を世界じゅうに発揮して世界を平安にしようとした人は、 それに先だってまず [世界の本である〕その国をよく治めた。
その国をよく治めようとした人は、それに先だってまず〔国の本である〕その家を和合させた。
その家を和合させようとした人は、それに先だってまず〔家の本である〕わが身をよく修めた。
わが身をよく修めようとした人は、それに先だってまず〔一身の中心である〕自分の心を正した。
自分の心を正そうとした人は、それに先だってまず [心の中心である〕自分の意念(おもい)を誠実にした。
自分の意念を誠実にしようとした人は、それに先だってまず〔意念の本である]自分の知能(道徳的判断)を十分におしきわめた。
知能をおしきわめ〔て明晰にす〕るには、ものごとについて〔善悪を〕確かめることだ。
金谷治『大学・中庸』岩波文庫
これは、第1章の項一、二のところである。