師の曰、それならば無記じゃござらぬは。
鈴木大拙編校『盤珪禅師語録』岩波文庫p.87
盤珪佛智弘濟禪師御示聞書 下 二九
或僧問。不生で居よとの御示しでござれども、それがし存じまするは、それでは無記でござるが、苦しうはござりませぬか。
師の曰。こなたの何心なふこちらむいて、身どもがいふ事を聞ござるに、後から、ひよつと、人がせなかへ火をさし附たらば、あつふ覚えやうか、あつふ覚えまいか。
僧云、あつふ覚えませう。
師の曰、それならば無記じやござらぬは。あついと覚ゆる物が無記なものか。無記でなさに、あついと覚ゆるはひ。無記でなさにあつい事も寒事も、しらふと思ふ念を生ぜずに居て、よふ知り分見わけますわひ。こなたが無記じやが苦しうなひかといふものが、無記な物か。無記でなさに我でによふ無記を知りますわひの。又無記でなさに、無記じやが苦しうないかといひますは、無記なら、なんとして無記ともいひませうぞ。すれば佛心は霊明にして、かしこい物でござつて、無記じやござらぬは。それを無記と思ふはこなたのあやまり、思ふ物が無記な物か。無記な物なら思ひもせぬ筈じや。それならどこに無記といふ事がござらふぞ。扨こなたはいつ無記で居る事が有るぞ、不断無記ではござらぬわひ。