管長日記「舎利講 – 今むかし –」解釈20241022
10月15日に実施された円覚寺での舎利講について、今回とこれまでの式の内容について話している。これまでといっても、おおまかにはコロナ禍があったことでの変化なのだ。舎利講というのは、もともと2日間の大きな式だったようだが、それが極端に縮小されてしまったことによるようだ。ある年に中止しても、その翌年開催なら、完全復旧できるのだろうが、参加者無しでの大規模縮小で実施していたために、なかなか戻しにくいようだ。
他宗派のことなのだが、浄土真宗の西本願寺派は、例えば報恩講も、また大晦日、元旦もオンラインライブを継続実施しており、イベントを継続しており、期間的には従来通りを維持している。規模もおそらく変わっていないような感じがする。そもそも、毎日、一日中ライブカメラを回しているし、朝夕のお勤めでカメラ操作をしている。
予算、設備、人員の問題があるが、認知してもらうには良い手段だろう。
「不易流行とよく言いますが、変わらないものを護るためには、変わることも必要なのであります」と仰る。コロナ禍で世の中に著しい進歩があったのだ。特にインフラ面に歴史ある円覚寺の最大のチャレンジがあるだろう。
こうなってくると、私的には、円覚寺様にご提案してみたいこともあるのだが。
構成
1.コロナ禍と舎利講
2.今年の舎利講
3.舎利講式について
■1.コロナ禍と舎利講
コロナ禍の前までは、舎利講式は二日間に亘って行う。
初日、羅漢様を供養する羅漢講式、翌日、舎利講式と管長法話、百味供養、大施餓鬼。
円覚寺派の寺院の檀信徒が大勢お参り来た。
これで舎利講が円覚寺で最大規模のイベントだったと分かる。これは私には驚きであった。
私(老師)が修行僧だった頃には、二百名も三百名ものお参りでありました。
お寺にお泊まりになる方も大勢いらっしゃいました。
そんな皆様の布団を敷くのも私たち修行僧の仕事だったのでした。
信徒会館や、選仏場など、百名を超える方々のお布団を敷いて用意していたものです。
そして朝にはお布団をあげて、掃除をして朝ご飯を出してと、まるで旅館のようなお仕事でありました。
もう今となっては懐かしい思い出であります。
だんだんと年と共にお寺に宿泊なさる方は減ってきました。
もうホテルのようなところでないと、お寺に大勢が布団を敷いて雑魚寝をするようなことは、なかなか少なくなってきたのでした。
私も小学生の頃、高野山の宿坊で広い部屋に皆で雑魚寝した思い出があります。
それが今や個室が中心になっているとうかがっています。
前日の羅漢講式からお参りくださり、お寺に泊まって、早朝に祝聖の法要に出てそのまま舎利講式、そして管長法話、百味供養、そして大施餓鬼とお参りくださっていたのでした。
私が管長に就任した頃には、かつてほどの人数ではありませんでしたが、まだそうしてお泊まりになってお参りくださっていました。
ここのところ、原文そのままだが、状況の変化がよくわかる。昭和の終盤から平成と、仏教が縮小してきた社会情勢そのものである。
それがコロナ禍の間は、開催できずにいますと、もう昨年と今年と泊まってお参りくださる方はゼロとなりました。
それではなんとか一日に縮めて行事を行おうと試行錯誤しているところであります。
一日にしましても、昨年お参りくださる方はゼロとなってしまいました。
かつて御案内していた円覚寺派のお寺の檀信徒の方々のお参りはとうとうゼロになってしまったのです。
舎利講というのが成り立たなくなったのでした。
コロナ禍は決定的な状況変化だったとある。
■2.今年の舎利講
「講」という言葉があります。
「①仏典を講義する法会。最勝王講・法華八講など。
②仏・菩薩・祖師などの徳を讃嘆する法会。
③神仏を祭り、または参詣する同行者で組織する団体。二十三夜講・伊勢講・稲荷講・大師講の類。
④一種の金融組合または相互扶助組織。頼母子講・無尽講の類。」(『広辞苑』)
三番の神仏を祭り、または参詣する同行者で組織する団体という意味であります。
円覚寺の場合、仏舎利を信仰する方の集まりだったのでした。
それがとうとう参詣の檀信徒がいなくなり、三宝会の皆さんに御案内してお参りいただくことにしたのでした。
「多くの方に集まってもらって、仏舎利にご縁を結んでいただきたい」としながらも「今回は、舎利開帳の読経のあと、舎利講式のみを行い、そして小休止のあと、施餓鬼の法要をおつとめしました。そしてお昼ご飯を召し上がっていただいたのでした。羅漢講式、百味供養、管長法話などは省略としたのでした。」だったとある。
羅漢講式 円覚寺に伝わる十六羅漢、五百羅漢の掛け軸をかけて、十六羅漢を勧請して行う式
百味供養 というのは、仏舎利と弁天様とにたくさんのお供物をみんなで、手から手へと渡しながらお供えするおつとめ。その間に円覚寺派のご詠歌を流す(これがまた趣のある、と老師)
■3.舎利講式について
今までは舎利講式をただおとなえするだけだった。参列される方には全く意味が分からない、という問題意識。
管長法話で、少しは解説し補っていたが、今回は無し。
管長就任前に、漢文の舎利講式の文章を、読み下し文にして、すべての漢字にルビを打った。それでも漢文訓読では、聞いていても理解は難しいもの。
このあたりも、舎利講の式の情報化について考えるところが多いのではないだろうか。なお、情報を得るだけなら、自宅でオンライン環境のほうが、はるかに効率的であろう。
ただ、現地の式であることが重要だという面は絶対にあるという。
たとえば「三界無比の大法宝を円覚妙場に瞻礼することは肉親の如来を鷲嶺に拝するに同じ」という一文があります。
これは、この世に比べるものもない尊い仏舎利を円覚寺の素晴らしい道場で拝むことは、生きた如来を霊鷲山に拝むのと同じということであります。
また「独り恨むらくは、凡夫の肉眼只寶塔の舍利を粧うを見て、自己のあまねく荘厳するを知らず」という文もあります。
これは、残念なことには、私たち凡夫の肉眼では、仏舎利が寶塔に飾られたのは見えても、自分自身が仏様のように荘厳されていることに気がつかないという意味であります。
「仏を現在に供養すると舍利を滅後に供養すると二人の功徳正等なり」という文もあり、これは、今現に生きた仏様を供養するのと、仏様の滅後に舎利を供養するのと二人の功徳は同じだという意味の文章なのです。こんな文章を唱えて供養していると、自ずから有り難い気持ちになるものです。
そもそも禅は「教外別伝 不立文字 直指人心 見性成仏」なので、文字、文章は本質ではないのだが、それに反して多くの文章を必要とする。これは日本の臨済禅だけでなく、禅一般である。歴史的に「学問」であった仏教はそうなるしかなかっただろう。情報も、その文字である。この部分を効果的にすることは、良いことだろう。
但し、現地で得ることの解決も必要であるとわかる。