管長日記「いとま無し」解釈20241018

南嶺老師の最近の日常の話。最近というより、少なくともここ数か月はこんな感じかもしれない。今年度に入ったくらいからである。開山忌はピッタリでだったと思うが、日記の内容はだいたい1週前の話になっている。

今日の話は花園大学での摂心の取り組みが興味深い。山田無文老師の話題があり、そのころの攝心はなかなかよかったのではないだろうか。現在では、集団で1週間まとめて摂心するのは無理だろう。ただ、メンタル的なロスを考えると、上手い取り組み方もあるのではなかろうか。

あと、ちょっと気付いたことだが、今日の老師の喋りは明るく、元気があった。

構成
1.近況、開山忌、花園大学、仏舎利ご開帳、など
2.花園大学での摂心、山田無文老師の若かりし頃の話
3.今回の花園大学の摂心
4.10月12,13日のこと、ZEN2.0など

忙しいことは別に悪いことではない。つらくなるというのは、また別のことだろう。眠れなくなったりすると、よろしくない。「「小人、閑居して不善をなす」という古い中国の言葉がありますが、私などは暇をもてあそぶとろくなことはありませんので、こうして次々課題を与えられて勉強し坐禅をしていますと、有り難い修行になるのであります」とのこと。結構リアルな歩歩是道場だ。

■2.花園大学での摂心、山田無文老師の話

摂心会とは「また特志の参禅者を集めて一定の期間接心を行わせる坐禅会」
もともと花園大学では摂心を盛大に行っていた。

無文老師『わが精神の故郷』(禅文化研究所)引用
毎学期大摂心があって、一週間八幡の円福寺の僧堂で摂心。
「秋の大接心のときであった。わたくしたちはめいめい座布団と日用品をかついで、八幡の円福寺へ籠城した。
広い禅堂であったが、五、六十人のものが坐ると、ぎっしりいっぱいだった。
そのとき、わたくしの真向かいに坐っておるクラスメートが、じつに坐禅に熟達しておった。
彼は学校へはいる前に、博多の聖福寺で数年、坐禅をしてきておるのである。
わたくしが足が痛くなったとき、ふと彼を見ると、彼は坐ったままびりっともしていない。わたくしが眠くなってふと彼を見ても、彼は動かない。
わたくしが体がだれて、どうにもならなくなってふと彼を見ても、彼はさゆるぎもしない。わたくしは大いにファイトをわかした。負けてなるものかと坐りこんだ。
四、五日たつと、わたくしも坐って坐ることを忘れ、立って立つことを忘れ、身心を忘却するところまで進んだ。
まことに神人合一の静寂さである。
そして第六日ごろ、参禅の帰りに、本堂の前の真黄色な銀杏を見たとき、わたくしは飛び上がるほど驚いた。
わたくしの心は忽然として開けた。無は爆発して、妙有の世界が現前したではないか。」

「隠寮へ走って参禅したら、公案は直ちに透り、二、三の問題を出されたが、その場で解決してしまった。
天の岩戸はたちまち開かれ、天地創造の神わざが無限に展開されたのである。
すべては新しい。すべては美しい。すべては真実である。
すべては光っておる。そしてすべては自己である。
わたくしは欣喜雀躍した。
手の舞い足の踏むところを知らずとは、まさにこのことであったろう。
天地とわれは不二である。」

ちょっと悟ってしまった状態のようだ。

老師から見ても、「一週間に亘る摂心でこんな素晴らしい体験をなされたのであります。こういうところに禅の醍醐味はあるものです」なのだろう。

■3.今回の花園大学の摂心

「もっとも今の大学でこのような一週間もの摂心は無理であります。」
また、「私が総長に就任して~、摂心のお話をさせてもらい、それから一緒に学生さんたちと坐るようにしてきました。
ところがなかなか学生が集まらないのが実情でした。
とくに近年はコロナ禍の影響もあって難しい状況でした。
授業のある日にはできないので、後期の授業が始まる前に開催したりしていました。
ところが九月はとても暑くてたいへんなのです。
そこで昨年は一年の授業が終わった後に開催したのですが、年末であり、学生さん達は帰省したりして参加者は十名にも満たなかったのでした。
そこで今年は、授業にあてて摂心をするようにと工夫してくれたのでした。」

やはりスケジュールを調整するのに数年はかかるのだろう。

「今年から私は「禅とこころ」という授業の他に、前期一回、後期一回と基礎禅学という授業も担当しています。
基礎禅学は全学生必修の授業なのです。
前期と後期とに分けて全学生に総長が話をするというようにしたのであります。
この講義を摂心の提唱に位置づけたのでした。
そして午後に実践禅学という仏教学科の坐禅がありますんので、それに合わせて学生さんたちの希望者を募って坐禅をしました。
その授業のあとにも希望者のみ坐禅をしたのでした。
昔のように独参というのは難しいので、最後には私と学生さんたち有志の方の懇談を行うようにしたのです。
そんな次第で二百名を超える学生さん達に話をして、午後から大学の坐禅堂で学生さんたちとゆっくり坐ったのでした。
十月のとても気候のよい時期で、窓から吹いてくる秋の風が心地よくて、風と我と一体となって境目がなくなる坐禅を味わうことができました。」

10月は坐禅に良い季節のようだ。確かに。5月もよいと思う。
問題は学生自体の主体性のようだ。

「しかしながら、懇談の折に学生さんたちの感想を聞いてみると、皆一様に足が痛かった、足の痛いのを我慢するのでたいへんだったというだけでありました。
特に今の方々はイスの暮らしをしてきていますので、座布団の上で坐って長時間過ごすというのはそれだけで苦痛なのだと分かりました。
もっとも仏教学科でこれから修行道場に入ってお寺の後継者にならなければならない方はある程度足の痛みにも辛抱して坐禅という形ができるようにしなければなりません。
しかし仏教学科以外の学生も多いのですから、そういう学生さんたちにはただ足の痛みに耐えるだけというよりもイスの坐禅も取り入れてもいいのではないかと感じました。」

股関節を柔らかくするだけで、半年、1年、いやそれ以上かかる。それを「やらす」こともできない。主体性は必要なのだが、大学的にはきっかけ作りなのだろう。

■小笠原和葉
「次の日(10月13日)も建長寺で私の講演の前に小笠原和葉先生の「しなやかに坐す身体のためのボディーワーク」という講座があって受講しました」とある。

no+eに自己紹介があった。

小笠原和葉(おがさわらかずは)
ボディーワーカー/代替医療から現代医学まで幅広く学術・臨床研究を深め新しい健康観「健康3.0」を探求しています。宇宙物理学→ボディワーカー→医学部大学院研究生という謎キャリアを熟成中
https://bodysanctuary.jp/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?