管長日記「禅僧と老い」解釈20241224
今週は徳山禅師の特集のようだ。と思ったら、どうも麟祥院での講座の集まりでの材料になったか、特に話題になったようだ。
今日の話は、徳山の老いに因むが、老師のかなり深い考え、というか感覚に根ざすところがある樣子。よく聴くと、興味深い。
ところで、『宗門武庫』の話はないのだろうか。ここのところ聞いていないような気がする。
構成:
1.臨濟録の徳山禅師との問答
2.麟祥院の勉強会
3.「老成」
4.「掩室杜詞」と今の時代
■1.臨濟録の徳山禅師との問答
「三日ほど前に「棒と喝」と題して、『臨済録』にある、徳山禅師との問答について書きました。」
こんなにつづくとは思っていなかった。
「今一度」と引用。
「師が徳山のそばに立っている時、徳山が言った、「ああ、今日は疲れた!」
師「このおやじ!なにを寝言を言うか。」
徳山はそこで師を打った。
師は徳山の坐禅の椅子をひっくりかえした。
徳山はそれでやめた。」
(入矢義高『臨済録』岩波文庫)
原文(訓読)
「師、徳山に侍立する次で、山云く、今日困(つか)る。
師云く、這の老漢、寐語(みご)して什麼(なに)か作ん。山便ち打つ。
師、縄牀を掀倒す。山便ち休す。」
「木版本だと、わずか二行の文章であります。」
木版本というのは、唐の時代に作られた本のことと思う。円覚寺は所有しているのだろうか。
漢文は次である。
師侍立德山次,山云:「今日困。」師云:「這老漢寐語作什麼?」山便打,師掀倒繩床,山便休。
■2.麟祥院の勉強会
「先日の湯島の麟祥院の勉強会では、この二行について一時間講義をしていました。たった二行ですが、考察してゆくと実に奥深いのです。」
「まず二人の年齢の考証をしてみました。
これも以前書いた通りなのですが、徳山禅師は西暦七八〇年のお生まれで八六五年にお亡くなりになっています。臨済禅師は、生年が分かっていないのですが、八六七年にお亡くなりになっています。里道徳雄先生の『臨済録 禅の神髄』には、臨済禅師が生まれた年は元和年間、西暦八〇六年から八二〇年くらいではないかと書かれています。八〇六年から八二〇年というと一四年も開きがありますが、だいだいなかほどをとると、臨済禅師と徳山禅師とで三十歳くらいの年齢差があったのではないかと察します。この問答のとき臨済禅師はまだ修行時代ですから、二十代の後半から三十歳くらいとして、徳山禅師は六十歳ころかと推定されます。」
確かに、3日前、年齢について取り上げていた。
「柳田聖山先生が、「客気の青年と、老成した徳山の風格が想定される」と評しておられますが、徳山禅師は老成した頃なのです。」
年齢と禅風の変化とか、問答の特徴とかを研究するのかと思いきや、完全に話の主題が変わる。
「今六十歳で老成というと違和感があります。」
■3.「老成」
老師は言う、「私なども六十歳を迎えましたが、とても老成などといえるものではありません。今の時代ですと「老成」は七十から八十代かと思います。しかし、これはまだ七十になるのは、古来稀だと言われた時代ですので、六十で十分老成なのです。」
老成とは、「①年のわりに大人びること。②経験を積んで、巧みになること。老熟。老練。」(『広辞苑』)
ただ、話を聞いていると、この記載にピッタリ当てはまるような感じでもない。
「かつてある会合で同席した老師が、「もう疲れたよ」と仰るのを耳にしたことがありました。六十代の老師だったと思います。当時まだ私は若かったので、この老師はなにを仰るのかと怪訝に思っていました。今六十を迎えると、そう仰る心境が少し分かってきました。やはりくたびれるのです。」
?!
「老いという年齢からくる身体的な要素もありますが、また精神的な面もあるものです。」
「一人の禅僧も若い修行時代、修行を終えて血気盛んな頃、教化に勢力を注いでいる頃、そして老成してゆく頃、その時々によって変化があるものです。
徳山禅師もまた、若い修行時代、禅を滅却しようと意気込んだ時もありました。禅に傾倒して今まで学んで来た経典注釈書を燃してしまった頃もありました。その後、血気盛んで潙山禅師に果敢に問答に挑んだ時もありました。修行僧を導くようになって、「我が宗に語句無し、実に一法の人に与る無し」(我宗無語句。實無一法與人。)
「道い得るも也た三十棒、道い得ざるも也た三十棒」(道得也三十棒。道不得也三十棒。)言いとめても三十棒をくらわし、言いとめられなくても三十棒くらわす時もありました。そして今また「今日は疲れた」(今日困。)とふとそんな言葉を口にするようにもなっているのです。
それから更に臨済禅師が楽普を遣わして問答した頃になると、徳山禅師と楽普は五十四歳も離れていますので、徳山禅師も七十くらいではないかと想像します。若い楽普を棒で打ちすえようと、まだ気力が衰えていないものの楽普にその棒を受け止められて押し返されてしまいました。すっと、自室に帰ってゆかれたのでした。」
最後のところ、『臨濟録』勘辯の十四だろう。
師聞第二代德山垂示云:「道得也三十棒,道不得也三十棒。」師令樂普去問:「道得為什麼也三十棒?待伊打汝,接住棒送一送,看他作麼生?」普到彼如教而問,德山便打,普接住送一送,德山便歸方丈。普回舉似師,師云:「我從來疑著這漢,雖然如是,汝還見德山麼?」普擬議,師便打。
ちなみに「今日困。」は『臨濟録の行録三。
師侍立德山次,山云:「今日困。」師云:「這老漢寐語作什麼?」山便打,師掀倒繩床,山便休。
「大森曹玄老師は、そんな徳山禅師の姿を「無我無心、遊戯三昧の超脱ぶり」と称えておられます。そのように受け止めるのが伝統の解釈ではありますが、やはりそこにも禅僧にとって「老」はいかんともしがたいと感じます。」
弟子の巌頭禅師から「何物も寄せつけぬ、気骨の峻厳さ強靭さは見事だが、人を導き育てるということになるともう一つだ」と評されているのです。
「巖頭聞之曰。德山老人一條脊梁骨硬似鐵。抝不折。然雖如此。於唱教門中。猶較些子」を五燈會元から取ったが、景徳傳燈録にもある。
おそらく、徳山は、行動、態度としてはかわったのだが、強気の姿勢を継続している、というのが伝統的解釈なのだろう。
そして、老師は考察を進めていく。
■4.「掩室杜詞」と今の時代
「その麟祥院での講義の午前中は、円覚寺に佐々木奘堂さんにお越しいただいて講座を開いてもらっていました。奘堂さんからは今回、腰を立てると意識するのではなく、自ら立ち上がろうとして起き上がる所に自ずと腰が立つのだということを学びました。そして河合隼雄先生の言葉を紹介してくださいました。」
そうだった、坐禅の講座なのだろうが、これも健康体操であり、しかも仏法法話が混じっているような関係性なのだった。
「心理療法家としての失敗は、何かしなかったためよりも、何かしたために生じることの方が多いように思われる。余計なことをしたために強い依頼心をおこさせたり、その人の自ら立ち上がる力を阻害してしまったりすることが多い。」(河合隼雄『新しい教育と文化の探求』創元社、194頁)
河合 隼雄(かわい はやお、1928-2007)
日本の心理学者。教育学博士(京都大学)。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。文化功労者。元文化庁長官。国行政改革会議委員。専門は分析心理学(ユング心理学)、臨床心理学、日本文化。
「こちらが一所懸命にその人の為によかれと思って教えたつもりでも、却ってその人の本来持っているものを損なってしまうこともあるのです。教化とか接化といって、禅僧は指導しますが、果たしてそれがどこまで届いているのか自問自答することがあります。
森信三先生が「教育とは流水に文字を書くような果かない業である」と仰せになっていることを実感することがあります。
徳山禅師の「今日は疲れた」の一言にもそんな思いを感じるのであります。
とりつく島もないと思われようが、そのとりつく島を与えない、むしろ奪うことこそ、最大の慈悲だと信じて棒で打ってきたのですが、果たしてどこまで届いたのであろうかという思いを感じるのです。」
失望感があるということだろうか。
「河合隼雄先生は、「自分の仕事の理想は「何もしないことに全力をあげる」ことではないかとさえ思う。人びとは自分の力で治ってゆく。自分の力で治ってゆく人の自己治癒の力を最大限に発揮させる最良の方策は、他から余計な力を介入させないことだ。」と仰せになっている言葉は実に心に響きます。」
回復という考え方と捉え直した、ということだろう。これは、持続、継続できるということでもあるはずだ。
「徳山禅師の峻厳一徹な指導を批評して、その影響を受けながらもその人、その時に応じて自在な接化を試みた臨済禅師も晩年は「室を掩い詞を杜ず」(掩室杜詞。)と言葉を発しなくなり、また最後には我が正法眼蔵は瞎驢辺に滅却すると慨嘆されました。(吾滅後不得滅却吾正法眼藏。)
私も今まではこんな読み込み方はできませんでしたが、やはり六十という年齢になってしみじみと感じるのであります。
また語録を単に伝統の解釈だけで読むのではなく、虚心坦懐に読もうと、麟祥院の勉強会で小川隆先生に教わってきた影響も大きいものです。」
臨済晩年の言葉は臨濟録の序の偈に入っている。
銅瓶鐵鉢。掩室杜詞。松老雲閑。曠然自適。
(銅瓶鐵鉢(どうはつてっぱつ)、室を掩(おお)い詞(ことば)を杜(と)す。松老い雲閑(しず)かにして、曠然(こうねん)として自適す。)
また、臨濟遷化は『臨濟録』の最後のあたり。
師臨遷化時據坐云。吾滅後不得滅却吾正法眼藏。三聖出云。
爭敢滅却和尚正法眼藏。師云。已後有人問爾。向他道什麼。三聖便喝。
師云。誰知吾正法眼藏。向這瞎驢邊滅却。言訖端然示寂
小川隆先生のことに触れている。確かにご活躍される。
「しかしながら、今の時代はまだ六十歳では老成とは言いがたいのです。まだまだ「今日は疲れた」など言っておらずに頑張らないといけません。そして「なにもしないことに全力をあげる」、これは私にとっての大きな課題となりました。」
徳山禅師、臨済禅師の変化を看て、自分を顧みていた、とわかる。この姿勢は禅語録の読み方の禅的な態度なのかもしれない。何も看話禪や活句にこだわる必要もないのだろう。とはいえ、語録中の言葉を使って、臨機応変に自分をいうという、これは巧み、匠といったものだろう。