管長日記「愚を守る」解釈20241109
立冬ということで、寒くなってきた。
昨日の釈宗演老師の「愚波羅蜜」に続いて「守愚」、これは中国の古典、諸子百家以前のころからの概念のようだ。仏教以前とも思う。少なくとも中国ではそうだろう。
いまでも「愚直」というと、そんなに悪いイメージはない。ただ「スマート」といった良いイメージもない。ただ、スマートといって焦らされているのもまた本当のところだろう。慣れるとスマートにできる。しかし慣れたころにはスマートではなくなっているかもしれない。
「愚」ということばは、そのスマート側から見た時の悪口なのだが、変わらない価値観のことともいえるし、普遍的なやり方のことともいえるだろう。もしくは、否定の否定という強調の側面もあって、まさに禅の発想法、論理っぽさがいい。
もちろん、日常であまり愚なんて語は使わない方がよい。古典の読み方。
老莊思想のトピックは、禅仏教ならではといった感じがある。いいものだ。
構成:
1.「守愚」という言葉
2.『史記』老子・韓非列伝、老子と孔子の問答(君子盛徳容貌若愚)
3.『老子』第二十の「学を絶てば憂い無し」(絶学無憂(ぜつがくむゆう))
4.『列子』「愚公山を移す」
さあ、漢文の時間だ。
■1.「守愚」という言葉
「かしこぶらないこと」(諸橋轍次先生、大漢和辞典)
用例「愚を守って世途の険しきを学ばず、事無くして始めて春日の長きを知る」
「「愚」ということは、一般にはよい意味で使われないものですが、老荘思想においては愚というのはすぐれた徳として説かれるようになっています。」
「其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」(谷崎潤一郎、『刺青』の冒頭)
■2.『史記』老子・韓非列伝、老子と孔子の問答(君子盛徳容貌若愚)
「孔子は周の都へおもむき、礼について老子に質問せんとした。
老子は言った、「きみが言っている人たちは、その骨といっしょに朽ちてしまった。
ただそのことばだけが存在する。
それに君子は時を得ればそれに乗り、時を得なければ、転蓬のごとくさすらう。
『良れた商人は品物を深くしまいこみ何もないように見え、君子は盛んな徳があっても、容貌は愚者に似る』とわたしは聞いた。
きみの高慢と欲望、ようすぶることと多すぎる志をのぞくことだ。
そんなことはどれもきみの身にとっては無益だ。 わたしがきみに教えられることは、それくらいのものだ」。」(『史記列伝一』岩波文庫)
『史記』「良賈深蔵若虚」(老子韓非列伝)
老子者、楚苦県厲郷曲仁里人也。名耳、字耼、姓李氏。周守蔵室之史也。
孔子適周、将問礼於老子。
老子曰、「子所言者、其人与骨皆已朽矣。独其言在耳。
且君子得其時則駕、不得其時則蓬累而行。
吾聞之、『良賈深蔵若虚、君子盛徳容貌若愚。』
去子之驕気与多欲、態色与淫志。
是皆無益於子之身。吾所以告子、若是而已。」
孔子去、謂弟子曰、「鳥吾知其能飛~
『史記』老子・韓非列伝は、韓非が老師の系譜にあることを示すもの。
問答では、老子がいきなり本質の言葉を孔子に投げかける。
孔子は去ったあとで、弟子に言う、「吾今日見老子、其猶竜邪。(吾今日老子を見るに、其れ猶ほ竜のごときか)」。
■3.『老子』第二十の「学を絶てば憂い無し」(絶学無憂(ぜつがくむゆう))
「第二十章〔およそ学問さえ捨ててしまえば、我々の抱く悩みは全てなくなる〕。
学問によって教えられる、ハイという返辞とコラという怒鳴り声とは、そもそもどれほどの違いがあろうか。美しいものと醜いものとは、一体、どれほどの隔たりがあろうか。
だから、学問の教えるものは全て捨てて構わないのだけれども、ただ人々の〔畏れる〕ものだけは、わたしも 〔畏れないわけにはいか〕ない。
〔道というものはぼんやりとしていて、人間にとって把えることの極めて難しい実在だ〕。道を知ろうとしない大衆は浮き浮きとして楽しく生きている。
彼らは、あたかも大ご馳走の饗宴に臨むかのようであり、また春、高台に登ってあたりを見晴るかすかのようでもある。
しかし、わたしはつくねんとしてまだこの世に姿を現わす前の状態にいる。
あたかも〔まだ笑うことを知らない赤ん坊〕のようでもあり、またぐったりと疲れはてて〔帰るところのない者〕のようでもある。
〔大衆は〕 誰しもみなあり余る財貨を持っているけれども、わたしだけは貧乏だ。
わたしは愚か者の心の持ち主、のろのろと間が抜けている。
道を知ろうとしない世間の〔人々は、はきはきと知恵がよくまわるのに引き替え、わたしだけは〕 どんよりと暗くよどんで〔いるかのようだ〕。
世間の人々はてきぱきと敏腕を振るうのに対して、わたしだけはもたもたしている。
この道はおぼろげで果てしなく〔海〕のように拡がっており、ぼうっとどこまでも伸びて止まるところがないかのようである。
〔大衆は誰しもみな世わたりの方便を持っているが、わたしだけは頑迷固陋〕でその上わたしはただ一人、他の人々とは異なって、万物をはぐくみ育てる乳母にも譬られるこの道を大切にしたいと思う。」(『老子 全訳註』講談社学術文庫)
学を絶てば憂いなし。唯(い)と阿(あ)と相い去ること幾何(いくばく)ぞ。善と悪と相去ること何若(いかん)ぞ。人の畏(おそ)るる所は、畏れざるべからざるも、荒(こう)としてそれ未だ央(つ)きざるかな。衆人は煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如(ごと)く、春に台(うてな)に登るが如し。我れは独り怕(はく)としてそれ未だ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるが如し。儽儽(るいるい)として帰(き)する所なきが如し。衆人はみな余り有るに、而(しか)るに我れは独り遺(うしな)えるが如し。我れは愚人の心なるかな、沌沌(とんとん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たり、我れは独り昏昏(こんこん)たり。俗人は察察(さつさつ)たり、我れは独り悶悶(もんもん)たり。澹(たん)としてそれ海の如く、飂(りゅう)として止(とど)まるなきが如し。衆人はみな以(もち)うる有り、而るに我れは独り頑(かたくな)にして鄙(ひ)なり。我れは独り人に異なり、而して母に食(やしな)わるるを貴(たっと)ぶ。
絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。儽儽兮若無所歸。衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、飂兮若無止。衆人皆有以、而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。
荘子も引用する。(荘子:斉物論第二(30) 萬物盡然,而以是相蘊)
「大衆はこつこつと勤めるけれども、聖人はぼんやりと愚かである。
永遠の時間の中の出来事をこき雑ぜて、ひたすら世界を純粋さへと高めていき、万物を全て然りと言って斉同化して、万物を尽く是と見なして包みこむ。」(『荘子』)
衆人は役役(エキエキ)たるも、聖人は愚芚(グドン)、萬に参じて、一(いつ)に純を成す。万物を尽(ことごと)く然(しか)りとして,而して是(こ)れを以て相い蘊(つつ)む。
衆人役役,聖人愚芚,參萬歲而一成純。萬物盡然,而以是相蘊。
「絶學無憂」とは魅力的なことばだが、このことばだけを頼ってはいけない。文章ごと解釈し覚えるべきだろう。
永嘉玄覚禅師(六祖慧能法嗣)『証道歌』に「絶学無為閑道人」とあり、一見似ているが、違うものだ。
■4.『列子』「愚公山を移す」(愚公移山(ぐこういさん))
『列子』卷第五/湯問篇にある。
『広辞苑』には「北山の愚公が、齢90歳にして、通行に不便な山を他に移そうと箕で土を運び始めたので、天帝が感心してこの山を他へ移した、という寓話。たゆまぬ努力を続ければ、いつかは大きな事業もなしとげ得ることのたとえ。」と解説されています。
wikipediaには毛沢東のことが書かれる。
「毛沢東は1945年6月にこの話を演説で引用し、日本と中国国民党政権を二つの山に、中国共産党を愚公に喩え、どんなに敵が強力に見えても、我々が山を崩し続ければ、天帝にあたる中国人民は我々を支持してくれるのだと訴えた」と。
北山の愚公という九十近い老人がいました。
南が山でふさがっているので、その山を平らにしようと言い出したのでした。
息子と孫とで山を崩しにかかりました。
それを河曲の智叟が笑うのです。
「なんと馬鹿げたことを。老い先短いお前さんにゃ、山のかけらひとつ崩せまい。
ましてあの大きな山の土や石をどうするつもりだ」
それに対して愚公は
「わたしが死んでも子どもがいる。子どもが孫を生む。孫がまた子どもを生む。
子どもにまた子どもができる。その子どもに孫ができる。こうして子孫代々うけついで絶えることがない。だが山はいま以上高くならない。平らにできないことがあるものか」
と言ったのです。
「智叟は返すことばがなかった。山の神はこのやりとりを聞いて、愚公がとことんやりぬくのではないかと、そら恐ろしくなって天帝に訴えた。
すると天帝は愚公の熱意に打たれ、夸峨(かが)氏のふたりの子どもに命じて、ふたつの山を背おい、ひとつを朔東に、ひとつを雍南に置かせた。
これ以後、冀州から南、漢水にいたるまで小さな丘さえなくなった。」
(『中国の思想6 老子・列子』(徳間書店))
太行(たいこう)・王屋(おうおく)の二山(にざん)は、方七百里(ほうひちひゃくり)、高さ万仞(ばんじん)。本(もと)冀州(きしゅう)の南、河陽(かよう)の北に在り。
北山の愚公なる者ものあり、年且(まさ)に九十ならんとす。山に面して居り、山北の塞さがりて、出入の迂(う)なるに懲(くる)しむ。
室(しつ)を聚(あつ)めて謀りて曰く、「吾と汝らと力を畢(つく)して険(けん)を平らかにし、予南(よなん)に指通(しつう)して、漢陰(かんいん)に達せん。可なるか。」と。
雑(みな)然(しか)りとして相許す。其の妻疑ひを献じて曰く、
「君の力を以てしては、曾ち魁父(かいふ)の丘を損ずる能わず。太行・王屋を如何せん。且焉(いずく)にか土石を置かんとする。」と。
雑曰く、「諸(これ)を渤海の尾、隠土(いんど)の北に投ぜん。」と。
遂に子孫の荷担(かたん)する者もの三夫(さんぷ)を率い、石を叩き壌(つち)を墾き、箕畚(きほん)もて渤海の尾に運ぶ。
隣人京城氏(けいじょうし)の孀妻(そうさい)に遺男(いだん)有り、始めて齔(しん)す。跳(おど)り往きて之を助け、寒暑節を易(か)へ、始めて一たび反る。
河曲(かきょく)の智叟(ちそう)、笑ひて之を止めて曰く、
「甚しきかな、汝の不恵(ふけい)なる。残年の余力を以てしては、曾ち山の一毛を毀(こぼ)つ能はず。其れ土石を如何せん。」と。
北山の愚公長息して曰く、「汝が心の固(こ)なること、固(まこ)とに徹すべからず、曾(すなわち)孀妻の弱子に若かず。
我の死すと雖ども、子有りて存す。子は又孫を生み、孫は又た子を生む。
子に又子有り、子に又孫有り。子子孫孫、窮匱(きゅうき)無きなり。
而るに山は加増(かぞう)せず。何若ぞ平らかならざらん。」と。
河曲の智叟、以て応ふる亡(な)し。
操蛇(そうだ)の神之れを聞き、其の已(やまざる)を懼(おそる)るや、之を帝に告ぐ。
帝其そ誠に感じ、夸蛾氏(こがし)の二子に命じて二山を負わしめ、一は朔東(さくとう)に厝(お)き、一は雍南(ようなん)に厝く。
此より、冀(き)の南、漢の陰(みなみ)、隴断(ろうだん)無し。
太行、王屋二山,方七百里,高萬仞,本在冀州之南,河陽之北。北山愚公者,年且九十,面山而居,懲山北之塞,出入之迂也,聚室而謀曰:「吾與汝畢力平險,指通豫南,達于漢陰,可乎?」雜然相許。其妻獻疑曰:「以君之力,曾不能損魁父之丘,如太形、王屋何?且焉置土石?」雜曰:「投諸渤海之尾,隱土之北。」遂率子孫荷擔者三夫,叩石墾壤,箕畚運於渤海之尾。鄰人京城氏之孀妻有遺男,始齔,跳往助之。寒暑易節,始一反焉。河曲智叟笑而止之,曰:「甚矣,汝之不惠!以殘年餘力,曾不能毀山之一毛,其如土石何?」北山愚公長息曰:「汝心之固,固不可徹,曾不若孀妻弱子。雖我之死,有子存焉;子又生孫,孫又生子;子又有子,子又有孫,子子孫孫無窮匱也,而山不加增,何苦而不平?」河曲智叟亡以應。操蛇之神聞之,懼其不已也,告之於帝。帝感其誠,命夸蛾氏二子負二山,一厝朔東,一厝雍南。自此,冀之南,漢之陰,無隴斷焉。