今日の管長日記20240928
題目は「無力感」。深刻で悲しいこと、無力になるしかないときの話。
このような場合、論というものも目だたない。というか書けないだろう。
引用中心とならざるを得ないのだろうし、よって実は法話、文章の技なのかもしれない。
文章の構成は、
1.早大講演、森信三「最善観」の紹介、2024/8/6管長日記
「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、またこの私にとっては、最善なはずだというわけです。」
2.8/6管長日記で書いた兼氏敏幸の講演のことば、日航機事故と小池心叟老師の態度、最善になれないこと
「ところが実際に不幸に遭われた方や、肉親を亡くされた方に対しては、「絶対必然即絶対最善ですよ」なんて言えないですよね。言っても、「何を言ってるんだ」というふうになると思います。そういうときには、やはり一緒にそばにいて一緒に泣いてあげるしかないんじゃないかなと思います。」
3.今年正月の震災、豪雨、医師の質問、最善ではないことの例
4.五木寛之先生との対談本『命ある限り歩き続ける』
「人間には激励してもどうにもならない時がありますね。例えば末期癌の人を見ていて、「必ず治りますよ、新しい手術がありますから大丈夫ですよ」というようなことを言えば言うだけ、相手は「もう言わないでくれ。俺はもうちゃんと覚悟してるんだから」という気持ちになるでしょう。その時に「頑張れ」というのは非常に酷だし、聞いているほうは嫌なんですよ。
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人の苦しみはその人の苦しみであって、それを半分自分が分けてもらって背負うことはできません。
ではどうすればいいかというと、無言のまま自分の無力感に打ちひしがれながら、その人の隣りに座ってじっと相手の顔を見ていることしかないんです。
その時のなんとも言えない無力感、ため息のことを「悲」と言うのでしょう。」
森信三の「最善観」ということばは、修身講義録の第二部25項p.432が「最善観」である。ただ、この項の文章には強い印象のある言葉はない。「絶対必然即絶対最善」は、続・修身教授録の、「実践人の家」兼氏理事長筆のあとがきにある。
日記引用の強い印象の言葉は、管長日記2024/8/6「最善と思って生きる」にある兼氏理事長の講演の記事にあることば。その日記も日航機の自己の話題があった。老師のはじめての僧侶としての葬儀の参加だったとあり、忘れていた。駒大小川隆教授がそのことを覚えており、講演のテーマを考えて構成したのかもしれない。老師自心が入れることを決めたのかもしれないが、「死」に関わる人のことも考えることは、「死と生きる」という講演の重要な要素になる。
内容の説明が難しいテーマだが、そこのところを事例を多くして、積み重ねることで誤解の無いように進めている。「最善ではない」ということばを、上項目2.の終わりにもってきている。小池老師のあたりから、項目3にしてもよいかもしれないが、その前に兼氏先生の言葉「ところが実際に不幸に遭われた方や、肉親を亡くされた方に対しては、「絶対必然即絶対最善ですよ」なんて言えないですよね。言っても、「何を言ってるんだ」というふうになると思います。そういうときには、やはり一緒にそばにいて一緒に泣いてあげるしかないんじゃないかなと思います。」とあり、小池心叟老師の態度はこれに直接繋がるとした。
段の区切りについては、例えば項目3にある話題も含めて、事例ごとに区切ってもよいのだろう。要は、「絶対必然即絶対最善」に対して、そうできない「無力感」というものを示すため、またそれはいたって感情、同情、「悲」であって、論より事例で固めている。五木寛之のことばは、他の引用よりも、きちんと言語化されており、小池心叟老師の、ただ遺族の悲しみを親身になって聞いておられました、という態度の説明になっておいる。そのことばが、本日記の結論、老師のいいたいことになっているということだろう。