漢文仏典について(1)
日本では、歴史的に漢文を直接読んで仏教というものを獲得してきた。仏教に限ったものでもないだろう。鎌倉時代に假名書きも見られ、江戸時代には盤珪語録など完全に日本語といった感じの仮名の文となるが、それでも江戸までは漢文中心だったと思われる。明治以降、日本語といった感じなのだが、文語体で感じも難しく、今からすると、昭和の前半までの文章はまでは結構読みにくい感じがする。時代的に通してみると、500年からまあ1800年までの1300年間程は漢文中心だったことになる。このことは様々なことに関して考察できると思うが、仏教について末木文美士『日本仏教史』を参照してみる。
日本に入ってきた仏典は、基本的に漢文のものであり、インドの仏教が一度中国を経たものである。漢文仏経圏とすれば中国・挑戦、日本は共通する。そして、仏教経典は中国のオリジナルではなく、翻訳であって、インドでの本来的な意味からのずれや、中国での元々の考え方、思想の混入があるだろう。都來に至るまでの経路にも依存する。
漢文、すなわち中国語も固定されたものではない。仏典の翻訳が多い六朝から隋、唐時代は中国語としても過渡期であったようだ。また仏典は、時代的には進んだ語用を好む領域、つまり先進的な領域だったようだ。末木文美士は口語脈の言葉が文語に入ったとある。今の日本における英語の状況を鑑みると、中國としては新たな概念の言葉を導入するようなことも多かったのではなかろうか。
日本には、仏教だけでなく、他の分野、例えば儒教といった思想書だけでなく、法律や行政、また一般文芸なども、漢文が直接に入ってきた。そして翻訳されていなかったことが特徴だろう。翻訳しようにも対応する言葉が日本になかったためにできなかったのかもしれない。なんとか解釈して日本語に翻訳してもよさそうだが、訓読でこなしてしまった。そうなってしまった理由や、その良し悪しはともかくとして、翻訳の労力は省かれたことは事実であり、効率的に知識を導入できたことになったのだろう。
訓読は読み方の工夫である。「如是我聞」を「是の如く我れ聞けり」という日本語と(形式的に)変換するのが訓読である。文字順序を置換して、訓読みになるように仮名を補う。たまに、翻訳になるようなことばを当てることも多い印象もある。形式的な語の置換は容易だとしても、語彙の解釈はどうしても日本語的になってしまう。中国語と意識していても、部分的にでも訓読してしまわざるを得ない。これは良くないことかもしれないが、もはや、わざわざ中国語として見る気にもならない。漢文そのものの白文、即ち中国語の文そのままの記載であっても、日本では訓読によってよむものということが常識化した、とある。
参考:末木文美士、日本仏教史、新潮文庫、1996