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はじめて短歌結社に入る

 学生時代私は非常にアララギチックに短歌してたので、そのままアララギに入った可能性もあったのでしたが、そうはならなかった。

 なぜかというと、採用が決まった最初の勤務校に短歌の先生がいて、校内でやっていた歌会に誘われ、歌を2首出したのです。同期採用の人は他にもいたけど国語は私だけだった。

 土曜の午後、(まだ土曜は半日日課でした)学校の会議室に行ったらすでに沢山人が居て、そのほとんどが学校部外者だったのでちょっと驚きました。それは当該校の職員による開放講座というかたちで行われていた結社の歌会でした。

 隅の席では、誘ってくれた先生がFAX用紙(あの薄い青の縦横罫線が引いてあるB4の紙)に、提出された歌を細字の万年筆で書き取っていました。むかし(と言っても平成初年頃ですが)ほとんどの印刷物は手書き原稿の増し刷りでした。

 先生が全員の歌を書き終えると名前を伏せた状態で人数分印刷して配り、参加者はホワイトボードに書かれた歌番号の下に自分の名前を書きに行くのです。

 点差の付く無記名歌会はこれが初めてでした。同じくらいの年代の人のいない初めての歌会でもありました。初任校に勤務している4年間は月に1回必ずこの歌会に参加し、夏の全国大会にも参加し、旧かな・文語・定型、それからレイアウト制約の1首27字以内をたたき込ました。

 私の歌は必ずしもこれらの3つのルールに合わなかったし、自分でもそう思っていました。でもこの結社はその時点で50年も歴史のあるところだったのでそれは従わなくてはならないだろうと、なんとかその条件の中で自分の文体を作る努力をしたのです。

 4年後、転勤して子どもが生まれてしばらく歌会から遠ざかりました。月詠も休んだときがあったかも。下の子が歩くようになってからやっと、なんとか2人を連れて歌会に出ましたが、職場を出て保育園に迎えに行ってから連れて行く訳で、子どもも私も集中できないことが多く、また途切れ途切れになりました。担任を持って仕事が多忙を極めたのもこの頃です。

 学校は途中から土曜日は段階的に休業するようになりましたが、その分部活があったり、そうでなくても疲れてとにかく休みたいということがあったのでした。

 短歌の話から逸れてしまったので今日はこれで終わりです。この頃の歌は第一歌集に多く入っています。


 こんなまどろこっしい文章ですが、よろしければサポートお願いします。  あたし、いつもふと気づいたことはいっぱいあるんですが、ほっとくと忘れちゃうんですよ。  で、ここではもうちょっと落ち着いて深く考えてみたことを書いて見ようとしているんです。