写実、写実・・・。
佐藤は昔から、基本的に写実で歌を作っているんです。ただ、初めて歌集を渡して、自己紹介的にそう言うと意外そうな顔をされることがあります。
写実と言うと、なぜかそれが近代短歌的かつ伝統的手法だと思っている人がいて、じゃあ何を新しいと考えているか聞くと「前衛短歌」や「ニューウエーブ」と言う答えが返ってきたりするわけです。
そういう視点で見れば、たしかにわざわざ写実主義を標榜する「花實」から「未来」の、あまつさえニューウエーブの代名詞のような加藤治郎の欄に移った私が写実を主張することは意外なのでしょう。
結社を変わることは人間関係とりわけ「先生」を変えることでもあるので、私はしばしばこのことに関する説明を面倒に思うのです。そのときにいつも喉元に出かかる言葉があります。
「一度短歌史を勉強されてみてはいかがですか。」
これは私が「うたう☆クラブ」に応募していた頃、つまり「未来」に入る前ですが加藤さんに言われた言葉です。
「前衛短歌」も「ニューウェーブ」もいつまでも「前衛」で「ニュー」ではありません。それらは相対的な価値観なので、どちらもすでに評価の定まった歴史的な運動事象、あるいはその中に見られるある特徴的な表現手法として、今や短歌史の振り返りの対象となっているのです。
そして、これは大事なことだと思うのですが、「前衛短歌」も「ニューウェーブ」も写実を否定していません。
前衛歌人塚本邦雄のこの歌は写実的では無いでしょうか?
海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も 『水葬物語』
突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼 『日本人靈歌』
塚本は出征していないようなのでおそらくこれらは実景ではありません。それでも、この歌によって映像が喚起されない人はいないのではないでしょうか。
実景でないことでこの歌を否定する人は、戦争映画を見て作った歌で土屋文明に絶賛され、真相が分かった後何となく微妙な受入れ方になった渡辺直己のことなどを思い出すのかもしれませんが、なにしろ塚本は幻を写実して同じ幻を読者に見せてしまうのですから、これを究極の写実と言わずして何というのでしょう?
「私は、まことの『寫生」とは、その不思議を寫すことではある
まいかと思う」は、やっと探し出した『茂吉秀歌〈赤光〉百首』の中の言葉です。
さて、今度はニューウェーブです。
ニューウェーブ歌人加藤治郎のこの歌はどうですか。これを写実でないと言う人はいるでしょうか?
病院に人はまばらだとっくんと泡がのぼってウォーターサーバー
加藤治郎『海辺のローラーコースター』
1首だけ、それも一番新しい歌集からあげられてもたまたまそういう歌を探し出してきただけでしょう、という人もいるかもですが、じゃあ、
ニューウェーブ歌人穂村弘のこの歌はどうですか。代表歌でもありとても有名です。
終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて
穂村弘『シンジケート』
作者がこのバスに同乗していなくちゃいけませんか?乗ってないならそれは写実でも写生でもありませんか?
なんかけんか腰になりそうなのでやめますが(笑)。
結局、近代短歌の価値観の中心となるものは「実景」と「実人生」のようです。私はそれを否定しません。ただ、それは自分の経験という範囲を超えるものではありませんね。
私のやりたいのは創作なんですよ。私の実人生なんて実にチンケなものなので。
なんかけんか腰になりそうなのでやめますが(笑)。