第1歌集が出来てから
さて、第1歌集『虹の片脚』が出来てから大変だったのは謹呈です。
謹呈という言葉は知っていましたが、誰に送るべきかと言うことは全く見当も付いていませんでした。注文の冊数が丸々送られてきた記憶がありますので、代送サービスは歌葉になかったか、あっても使わなかったのです。
段ボールの中の本は、最初からビニールで封をされた個包装の状態でしたので、今思えば封筒にそのまま入れても大丈夫だったのですが、緩衝材代わりに換気扇のフード用不織布シート(笑!)にくるんだりしていました。
自宅住所のゴム印はホームセンターで作りました。宛名シールの作り方も、冊子小包の右上をちょっと切ることも、郵送費に1冊200円以上もかかることも知りました。
短歌年鑑を見て、とにかく知っている歌人、新聞社、出版社、結社の事務局などに送りましたが、いま残っている冊数を見ると、200冊にも足らない謹呈数です。結社の人には30人くらい歌会で配りましたので郵送したのは170弱。それでも郵送費には35,000円くらいかかり、当時の私にはとてもシビアな問題だったのです。その後登場した(今はもうありませんが)クロネコメール便だったら、歌葉の本の厚さは80円で送れたはずなので、たぶんもっと送ったと思いますが・・・。
そうだ、思いだした。この170の中には短歌に全く関わりの無い送り先もありました。それは地域の医療機関です。小児科、歯医者、眼科、耳鼻科と20カ所くらい、待合室に置いてもらおうと思ったからなのですが、送られてきた方は不思議に思ったかもしれませんね(笑)。
そんな作業をしている最中、私は結社の先生にようやく電話で歌集の報告をしたのでした。黙って出したこと、指導も解説も他結社の歌人であることなどを謝らねばなりませんでした。
先生は「そうやっていろいろな人と関わってゆくことで名前を知られるようになるのはいいことだ。」といって許してくれましたが、ニューウエーブ短歌の影響を受けたと話すと、「でも、こういう歌はそのうち作れなくなるよ。」とも言われました。私は、「ほんとにそうかな?」と思いながら聞いていました。
年が明け、結社の新年会の席で歌集のお祝いをしてもらいました。それはそれは実に勿体ないくらいのお祝いでした。ただ、私が考えていたようなイベントではなかった。
肝心なことはなんにも言はないの民に手を振り笑まふミカドは
当時すでに80代の年長者が多かった結社で、この歌が取り上げられることは緊張の極みでしたが「私には思いも及ばない歌で感心しました。」と言われたときは、余りに肩透かしでちょっといたたまれない気持ちでした。
「こういう歌はそのうち作れなくなるよ。」と言われたことを思い出し、ここでは、私が今若いと言うことだけが語られているのだと、それは批評とは言わないのだと言いたかったけど言えなかった。
程なく私は全ての選者の先生方に手紙を書いて、未来短歌会に移籍しました。
今日はこれで終わりです。