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写実と私性

前記事を西巻さんに取り上げられたのですが、
(これですが)https://note.com/cocoatalk/n/ndcb000612612
ちょうど、まったく別の場でまさに似たことを考えていたのです。

先日埼玉県歌人会の講演会があって、沖ななもさんからある質問をもらいました。沖ななもさんは加藤克己の「個性」解散後、「熾」という結社を主催する歌人で、埼玉県歌人会の現会長です。

質問内容を端的に、言うと

「自分の歌を、これは短歌ではないと評価されることが多かったのだが、何を基準としてそういう評価が下されたのだと思いますか?」

という、会ったこともないその評価者の考えを推測するほとんど無茶振りな質問でした。

沖さんは1983年現代歌人協会賞を『衣裳哲学』で受賞していますが、実は出発は現代詩で、1971年に『花の影絵』という詩集を出しています。

詩集から第1歌集まで、長い迷いの時期を経て、1行詩としての短歌にたどり着いたのだとのことでした。そういう経緯もあって今でも「歌人」と呼ばれることに抵抗があるそうです。

とにかく私はその場に例示された歌を見てすぐある評価軸を思いつきました。

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この椅子をわたしが立つとそのあとへゆっくり空がかぶさってくる
階段を下から支える空間のうす暗がりをひとりじめする
道の端にヒールの修理を待つあいだ宙ぶらりんのつまさきを持つ

消防分署の車庫のからっぽ 喪失のさなかのしずけさ
霊柩車が雨水はねて走り抜けしずかに水がもとにもどる間
空壜をかたっぱしから積みあげるおとこを見ている口紅ひきながら
卓莢の流れへ傾ぐ古幹の上へ向く枝下へ向かう枝
先の先まで伸ばすことなくしぼみゆくことしおわりのからすうりの花
ちりちりと岩を這うありとびはねてしぶきとなるあり滝のおもては
寒卵割れば殻のすきまからぬるりと落ちぬひかりをひきて
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これらの中には主語が自分であるとわかる歌が3首(太字)あるものの(狭義の)私性を強く主張する歌がなかったのです。

私は沖さんの問いかけに対しその事を言いました。

ただし、私自身はその「狭義」の私性について懐疑的に思っているので、それを短歌でないとする根拠に持ってくるのは賛成できないし、それは批判として成り立たないとも言いました。

そのあと、歌の「独自性」について質問した人がいて、その時はあまり議論にまでは発展しなかったのですが、私はむしろその「独自性」という言葉にとても腑に落ちる感じがしたのです。

それは、短歌にとって「私性」は大事な評価軸ではあるけれど、今まで無条件に高い地位を与えられすぎていたかもしれないという咄嗟の思いつきでした。

例えば、塚本の短歌は作者名が付いてなくても強烈にそれと分かりますが、それを「私性」が強いとは言いません。

つまり、塚本の歌の塚本らしさは「私性」の一つ上の概念で説明されるべきですが、それを広く「独自性」と言ってもいいのではないかと考えたのです。

「独自性」の輪の中に「私性」が入っていて、同じように「写実」や「表記法」「音楽性」なども等価のものとして入っている、という感じです。

現状ではこの中の「私性」だけが突出して高い地位を持っていることで、先ほどの「短歌でない」(私からの視線であるとの主張が弱い)批評を呼んでしまうのではないでしょうか。

もっと言うと、評価軸を「私性」に置きすぎることで、歌のみならず批評のダメさまでが免責されてしまう可能性があるという心配まで思いついてしまいました。

短歌を作る作者のまなうらにその風景がありありと見えていても、それはなかなか読者に伝わらない。ただ詞書き、作者情報、連作のつながりに補完されて「ふわっと」分かったことにされ、それをベースに批評される。作者は見たままを写実したつもりでいるのですから、批評がなされた時点で、解像度がどんなに荒くてもその風景は評者と共有されたことにあります。

詠まれている景が伝わっているのかいないのかより、ある一人の「私」が実際に見た(実体験・実人生の)風景を詠んだことの方に重きが置かれるということは、その写実が成功してるのか失敗しているのかが問われないことになります。

しかし、写実で作られた歌はあくまで結果で評価されなくては、つまり、「写実的」であるかで評価されなくてはなりません。

そんなこと当然だと思っている人は多いと思いますが、それはそういう批評を受けてきたからそう思うのであって、必ずしもみんながそうなのではないのです。

同じ韻文表現でも現代詩や俳句、川柳に「私性」という評価軸はありません。散文表現には、手紙や日記、あるいは告白なら別ですが、それ以外では表現の評価が「私性」によって不問にふされることは、それが私小説であったとしてもないでしょう

しかし短歌にだけはそれがあり得る。現代史から出発した沖さんには「私性」を重視するという規範はなかったと思うので、先ほどのような疑問を持つのは当然なのです。

岡井隆さんの

短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の―そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前に注記しましたが)を予想することなくしては、この定型短詩は表現として自立できないのです。(『現代短歌入門』1969年)

は余りに有名ですが、これは「そのように読まれ、批評される」ことを前提に作るという意味で読まれなくてはいけない。

そういう意味で、写実と私性の関係には注意深くなる必要があると思うのです。

今日はこれで終わりです。



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佐藤理江
 こんなまどろこっしい文章ですが、よろしければサポートお願いします。  あたし、いつもふと気づいたことはいっぱいあるんですが、ほっとくと忘れちゃうんですよ。  で、ここではもうちょっと落ち着いて深く考えてみたことを書いて見ようとしているんです。