結局誰の弟子にもなり損ねたかもしれません
以前ここにも書いたけれど、私は過去、おもに3人の「先生」と言われる人の元で短歌を作ってきました。大学の時は小市巳世司さんに、その後10年間くらい結社「花實」の利根川発さん、その後20年加藤治郎さん、という具合なのですが、大学の時はまあアララギに入っていたわけではないのでともかく、後の2人はそれぞれかなりの年月結社の中でお世話になったわけです。
でも、結局私の歌のどこを見ても「師系」を思わせるようなものはないなと、ホントにないなと、自分で見てもびっくりするほどないんです。
よく、「〇〇さんに憧れてどこそこに入りました」と言う言葉を聞くじゃないですか。私にはそもそもそれがなくって、たどり着いたところがそこだった。そこの歌会に歌を出し、「花實」では個性的な歌だと言われ、加藤治郎欄ではもっと個性的な歌がたくさんあったので、なんとか埋もれないように端っこにぶら下がり続けていました。
特に彗星集にいたときの私にとって、学びたいと思った人は治郎さんよりむしろ高田祥さんだったり中島さん、秋月さん、山崎さん、岸原さん、鈴木美紀子さん、3冠取ったときの西巻さんとか、もう上げればきりが無いんだけど、なにしろ治郎さんにイチから短歌教えて貰おうなんて人はそもそもいないわけ。
さらに治郎さんが仕事の関係で余り東京にいなかったときの歌会はお互いにとって他流試合みたいな感じで、みんな自分の短歌観全開でした。それで一時期余所の人に「彗星集の歌会は怖い」なんて噂があったりして、本人たちにはその自覚がなかったもので、外部の人にも参加してもらえるよう怖さを打ち消すように色々試してみたけど、批評の言葉をソフトにすることくらいしか思いつかなかったからあんまり意味が無かったかも(笑)。
こんな感じで彗星集は「ぼくたちは勝手に育ったさ」を地で行く集まりでした。勝手やり過ぎて治郎さんの逆鱗触れることがあっても、各自(少なくとも私は保護者対応で身につけた強引な)ネゴシエーション術で乗り切って(ごまかして・・・笑)来たわけ。
でも一般的(というものがあるなら)に、結社にいると、いちばん歌会で一緒になる指導者や、選歌欄の選者の「弟子」であると見なされます。でも弟子って、外形的なものではなく、例えば子規と左千夫とか迢空と岡野さんとか、師の全てを学び尽くそう、師の全てから影響を受けようと努力するというイメージがあります。
それで弟子が師系を受け継いでいって、かつそこに自分なりのものを加えて新たな価値を生み出してゆく。黒瀬さんは春日井さんから受け継いだものから独自の世界を作っているし、荻原さんも秋月さんも塚本さんから受け継いだものをきちんと自分の歌に昇華させているんです。
でも彗星集にはその師系を繋ぐ弟子(一番弟子?)を思いつかない。それは多分、治郎さん自身の師弟観が影響していると思うんです。私は治郎さんから、岡井さんが何を治郎さんに教えたかを聞いたことがありません(と思う)。とくに岡井さんから叱られた話は20年間で聞いたことがない。面と向かって何も言わないのが岡井さんのやり方だったのかもしれません。
私は治郎さんを間違いなく岡井さんの一番弟子だと思っています。多分治郎さんもそう思っている。そして岡井さんと同じように弟子を育てたいと思っていたかもしれない。それが笹井さんだったのでしょう。7月号の選歌後記を見て改めて思い知らされました。というか打ちのめされました。
治郎さんにとって笹井さんの発見と遺歌集を含む3冊の歌集出版は、他に何も見えなくなるほどの眩しい成果なのでしょう。治郎さんの手による笹井さんの歌集3冊のうち2冊が遺歌集なのです。
26歳で時間が止まってしまった笹井さんは、治郎さんにとって永遠に輝く一番弟子です。唯一の弟子かもしれない。とてもじゃないが太刀打ちできない。笹井さんは大好きだけれど永遠すぎる。
そんなわけで『八月のフルート奏者』のお手伝い(解説でちょっとだけ私の名前が出てきます)をした後、私は治郎さんの「弟子」であろうとするのはやめ、彗星集の一員として活動してきたのですが、これでもう誰の弟子になることは出来ないなと思いました。弟子になり方が分からないでここまで来てしまったのです。
イベントのお手伝いをするたびに、世間的な意味での「弟子」と呼ばれる機会も多く、そう見られるままにしてきましたが、これが結構苦しくて、彗星集のみんなも、ひょっとしてそう思ってないだけで立場は同じかもと考えると、ちょっともう彗星集には居られないなと思いました。
今日はこれで終わりです。