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「宗教学を学ぶ心構え」を学ぶ【ガチ素人のまなびと雑感】

 自分がその日学んだことや感じたことについて備忘録的にメモを残すこのシリーズ。あくまで自分用のものなのであいさつは省略させていただくのと,内容の都合ですます口調だとうっとうしいと思うので「である口調」で書かせていただく。そんな感じで。
 2回目にして大幅に間隔が開いてしまったが,別に毎日つけようと思っていたわけでもなく,「何か学んだことがあったら書こう」と思っているうちに日が開いてしまった。今後はこのシリーズもどんどん投稿頻度あげられたらいいなと思う。

宗教学をゼロから学んでみる

 今回は宗教学を学ぶ意義について,本から得られたor自分が勝手に感じ取ったことを共有してみようと思う。初めてだし初めの部分だけさらっと。
 筆者が宗教学を学ぶ動機は何か?一言でいえば,最近宗教について特に意識することが増えたからだと思う。それは世間を騒がせている旧なんとか協会の問題に興味を持って云々というよりもっと身近で小さいことな気がする。具体的には生命倫理の講義において,宗教が倫理観の形成に非常に大きな影響を及ぼしてきたことを知ったり,先日親族が亡くなり浄土宗式の葬儀に出席したのだがそれぞれの所作の持つ意味合いを全く理解できなかったりなど至極個人的な理由があげられる。

 教材とするのはこちら。
「宗教学キーワード」島薗進,福嶋 信吉,葛西 賢太,藤原聖子(編)(2006)株式会社有斐閣¹⁾

 宗教学については,しばらくこの本を教科書として使おうかなと思っている。理由は「目次・索引の充実」「引用・参考文献一覧がある」「使い方が明示されていて,辞書的に使っても問題なさそう」という感じ。大学の図書館には意外にも教科書として使えそうなのが見つからなくて(専門分野が違うし当たり前だが),地元の図書館で探してなんとか見つかったのがこの本。広く学問分野を対象に学び始めようとするときは,やっぱり教科書があると心強い。
 また,この本にはもう一つ筆者を強く惹きつけたポイントがある。それは「各章の各項目ごとに,その項目を学ぶ目的を問いの形に変換して冒頭に掲示している」点だ。例えば日本の宗教史や宗教にかかわる政策の変遷についての項目では「なぜ日本人は自分たちのことを「無宗教」だと思うのか?なぜ教育や政治に宗教がかかわることをよくないと思うのか?」という塩梅である。何かを学ぼうとするとき,その根底にあるのは「問い」だと思うので,これから学ぼうとすることについてそれを学ぶ目的となる問いを丁寧につけてくれているのは,個人的に非常にやりやすくてありがたいと感じる。
 今回の内容も,ほぼすべてこちらの本から得られた内容である。早速中身を読みつつ,気になったことをまとめてみる。

宗教学の入り口

 宗教学とは,そのものズバリ宗教について考える学問のことを言う。ただしその宗教へのアプローチの仕方は他の立場(ジャーナリズム,他の学問分野)からのものとは異なり,まず自分と宗教とのかかわりについて考えることから始まるようだ。
 宗教自体に関する情報は様々な分野の立場でそれについて書かれたものから豊富に得ることができる。しかしその中で,宗教学の立場から書かれたものはそれほど多くは存在しない,らしい。それゆえ宗教学という学問が宗教をどのようにとらえているかについて,世間一般的にはほとんど知られていないようである。この「宗教学の宗教との向き合い方に」ついて知るところから,宗教学の学びは始まる。

「無宗教」=「宗教に対し自由な視点を持てる」?

 「俺は無宗教だ!」というのを何人かの友人から聞くことがあった(実は自分もそう感じていた)が,「無宗教」であれば宗教の縛りから自由であるために宗教について客観的に見て,論じることが可能なのだろうか?結論から言えば,その答えはNOである,というのが本書の見解だ。
 過去行われた多くの世論調査から,現代日本に住む人の多くは「自分は無宗教である」と考えており,その認識には特に年代間の差も見られないことが判明している。そのような感覚の元,日々ニュースで流れてくる海外の宗教がらみの戦争やら事件やらの話を聞くと「なぜそんなに信心深くいられるのか」「もっと冷静に客観的に考えることはできないのか」などと考えることがある。

 では宗教に属していなければ,宗教に対して客観的に,自由な態度で議論をすることが可能なのだろうか?この考え方に至る過程には「宗教を信じていると特定の宗教的考えに縛られるが,無宗教であれば宗教を客観的・公平にとらえることが可能である」という前提がある。
 しかし自分が無宗教だと主張する人も,宗教に対し何らかの見解を自分の中に持っていて,それを土台に自分の主張をしているはずだ。この見解は場合によっては偏見(客観的な根拠のない判断の仕方)になりかねない。むしろ自分が無宗教だと思っている分だけ,宗教に対して自身が持つ偏見に気が付けない可能性もある。反対に,特定の宗教を信仰しているとしても,自身の宗教的価値観や偏見が自覚できるのであれば,宗教に縛られない自由な立場をとることは十分可能である。究極的には宗教の有無が宗教に対する見方の客観性や公平さを左右するわけではないのである。むしろ現代日本社会では宗教に対する意識や知識がなくてもなまじ生きていける分,宗教に対する知識や意識が成熟しにくく,宗教を主体的に問題にする姿勢がないので,かえって宗教に対して不自由になってしまうかもしれない
 
 …まあこれに関しては,「宗教を信仰していると偏見や宗教的価値観を自覚すること自体が難しい場合が多いんじゃね?」という疑問もある。しかし少なくとも,「無宗教だから私の意見は宗教に対して客観的だ」というのは危険なのかもしれない。

宗教と真正面から対峙するには?

 ではそもそも宗教とは何なのか?また,信仰の有無にかかわらず宗教を自由な視点で見るためにはどうすればよいのか?
 
一言でいえば宗教は人間の生きがいに対する根本的な問いの答えを求めて生まれてきたものらしい。そのため,自らの生に対し主体的な問いを持つことが宗教に対し自由な視点で議論する近道となるようだ。
 ここでいう「生きがいに対する問い」というのは,例えば「自分の生は生きるに値するものか?何を目標に生きるのか?自らにふさわしい生として生きられているのか?どうのように生きれば不和や無理解を超えよりよい関係の中で生きられるのか?」といった問いのことである。また「主体的」というのは「他に強制されたり、盲従したり、また、衝動的に行なったりしないで、自分の意志、判断に基づいて行動するさま。(精選版 日本国語大辞典)」という意味である。

 私個人の勝手な解釈としては,この主体的という言葉に含意される「盲従せず,衝動的になったりせず」というのがおそらく重要だと考える。自らの生に対し主体的な問いを持つためには,自分の周りの宗教を「無宗教だから」と切って捨て顧みないような態度をとらず,知識を深めて正面から対峙する姿勢が重要なのかもしれない。

まとめ(忙しい方はここだけでも可)

・宗教学というのはまず自分と宗教とのかかわりについて考えることから始まる。

・宗教の有無が宗教に対する見方の客観性や公平さを左右するわけではなく,「無宗教だから私の意見は宗教に対して客観的だ」と断言することはできない。

・宗教は人間の生きがいに対する根本的な問いの答えを求める中で生まれてきたもの。

・自らの生に対し主体的な問いを持つことが宗教に対し自由な視点で議論する近道となる。

 …長々と引っ張った割に当たり前のことを言うのか,と思う方もいらっしゃるかもしれない。というか,自分もぶっちゃけそう思った。しかし,学んでいくうちに自分の思考が得られた知識に縛られると「宗教に対する自由な考え」を持てなくなってしまうかもしれない。私が宗教学を学ぶ目的は特定の宗教について深く学び中に入っていくことじゃなく,宗教に対し客観的で自由な議論ができるようになりたいというもの。宗教に対する自分の立場を明確にしたうえで知識をつけるという姿勢が大事なのかもしれないと思い丸々一記事を使いこの項目を紹介した。

参考サイト

1)アマゾン ホームページ


 次回以降も,宗教学についてはこのテキストを教材に勉強していくつもりである。繰り返しになるが,ちんぷんかんぷんだったり誤った記述があればご指摘願いたい。

 それでは,またどこかで。


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