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【観劇】『舞台刀剣乱舞 禺伝 矛盾源氏物語1』

大千秋楽からずいぶんと日が経ってしまいました。
1度に書こうとするとあれもこれもとなり、話しがあっちいったりこっちいったり、どうにもこうにもまとまりがなく、ってことで書きたいことを何度かに分けてアップすることにしました。

今回は、何度もセリフで登場した「ものがたり」について

刀ステでは以前から「物が語る故に物語」というセリフが登場していましたが、前作『綺伝』から著しく協調されるようになった気がするのです。
それが今回の『禺伝』では何度も飛び出しております。(と記憶しています。)
それも「俺のものがたり」「僕のものがたり」という風に、自分のだと強調しているのです。

これは明らかに別の意図があるように思えるのです。

刀ステは舞台最終盤(ラスボスを倒してひと段落している場面)での男士たちの会話に次回作のヒントが含まれています。

例えば綺伝では、「そのうち物語に出陣なんてのもあるかもな」というセリフがありました。そうです。次回作はなんと源氏物語の出陣でした。
そして今回は、次作が「山姥切国広 単騎行」と発表済みなので、「とある本丸のとある山姥切国広なら…」と歌仙兼定が言いましたよね。
問題はこの後で、「自分たちの存在も物語だったらどうする?」(多少違うかもしれませんが、こんなニュアンス)という問いかけがありました。

このセリフは後々、意味を持ってくると思います。
(頷いてくれている方もいることでしょう。)

禺伝を除く刀ステに登場する本丸は毎回同じ本丸で、わたしたちはあたかも現実に刀剣男士が居て、彼らが歴史を守るために戦っているのを審神者として見ているつもりなんだけど、じつわ、刀剣男士ひとりひとりの物語が集まった「刀剣乱舞」という全集を読んでいるのではないか?

そんな気がしてならない、禺伝の終わり方だったのです。

本丸ごとに顕現する男士たちは同じ刀剣男士でも出陣した場所での経験により少しずつ違った物語を紡ぎ、異なる心を持つようになる。
だからあれほど「俺のものがたりだ」「僕のものがたりだ」と強調していたのではないかと思ってしまうのでした。

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