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人に優しくできない時は、心のどこかで不公平さを感じているのだ

 誰にでも優しくありたい。誰かを追い詰めたくないし、人に厳しくしたくない。だって性格キツいって思われるの嫌だし。日々健やかな心で生きていたい。

 そう思っているのに、心が納得しない状況がある。

 私の同僚は少し厄介で、無自覚に人を怒らせるような話し方をする。「そんなこともわからないなんてどうかしてるよ」「ちゃんと頭で考えた上での意見?」とか平気で言ってくる。本人は悪気はないと言っているし、そうだろうなと思う時もあれば、どうしても悪意を感じてしまう時もある。

 波風立てたくないから基本咎めることはしないし、そういう人なんだと言い聞かせながらコミュニケーションをとっている。

 でもそれが結構しんどくなってきた。

 その同僚と同じ部署になったばかりの頃は、会議の場で感情的になって後悔したり、怒りが収まらずに家で泣きながら日記を書いたり。

 今は少し慣れてきて、衝突することは減ってきたと思ったが、最近になってその同僚が不調になり。

 精神的なものらしく、確かにその同僚は繊細で傷つきやすいところがある(だからちょっとのことでも攻撃的な物言いになるのかもしれないが)。

 そんな同僚が人とのコミュニケーションについて弱音を吐くようになったのだが、私は慰めの言葉を表面では吐きながら、同僚に同情する気持ちと、なんで慰めてんだろう私だってこの人には何度も傷つけられてきたのに、と納得いかない思いがせめぎ合っている。

 弱っている人を目の当たりにすると反射的に同情心は出てくるけれど、「常日頃のこいつの行いを思い出せ」というアラートが脳のどこかで鳴っている。

 悪気はなかったとはいえ、傷つけられたのは事実。悪気がなければ何してもいいのか。悪気がないと言いながら、たびたびあらゆる人を逆上させてきたその人は、そういった振る舞いが自身の欠点と気づきながら、その欠点を放置してきた。

 その結果、その人は今傷ついている。

 死人に鞭打ちたくはないし、私は自業自得という言葉が嫌いだ。

 でもどうにもできないモヤモヤは残る。しょうがない。そう思ってしまうのは仕方ない。純度100の善人なんていないし、みんな平等にあらゆる感情とか欲望とかを抱えていて、違うのはそれぞれの濃度だけ。優しさが濃い人もいれば、薄い人もいる。それだけ。

 だから自分の中に、嫌な自分を見つけても、しょうがない。だって人間そんなもんだし。だから努力して自分の優しさの要素を増やそうとしているんだし。

 心の中は自由だ。好きな自分も嫌いな自分も同居しつつ、ただ生身の悪意を相手にぶつけさえしなければ、それでいいと思おう。

 優しくなりたい、って思いがあれば、それだけで十分なのかもしれない。

 

 

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