本に書き込む、本を捨てる
落合陽一、平野啓一郎、出口治明、齋藤孝、堀紘一…最近、そんなちゃんと世間で活躍している読書家たちの読書論を、嫉妬まみれの目線で読むということを繰り返しており、私も一瞬真人間になれるかと錯覚するのですが、すぐにいつもの暗黒面に戻っていきます。
読まない、捨てない、学ばないの三無主義。いったいじゃあどうして本を買うのかと聞かれそうですが、当然、そこに本があるからだ、と答えることでしょう。世の中には本を買わずに私が月間に買うだけの金銭を、新NISAなるものに毎月律儀に払い込んで、上だ下だの大騒ぎ。ポートフォリオなるものを組んで、毎月定額払い込んでいるのだから、もう一喜一憂しなくてもよろしいのではないでしょうか?と言いたくなります。
老後は大丈夫なんですか?と聞かれれば、痴呆になってお金があっても何にもつまらんじゃないですか。目と頭がキレているうちに、多少なりともそれらに投資しておくことが、ひいては歳を取っても頭をはっきりしていくことになりはしませんか、と憎まれ口を叩くと、キリギリスの言い分ですね、あとで後悔しても知りませんよ、と、脅しにかかってくる輩もいます。
さて、そんな折に、孝(これは齋藤孝のことで、私は愛を込めて「孝♡」と読んでいます)の本を読みました。すると、驚くべきことに孝は、本にバンバン3色ボールペンで書き込むと申しておりました。孝は再読派だと思っていたので、書き込んだら再読の際に不都合があるのではないかな、と思ったりもしましたが、孝はどこ吹く風の雰囲気でした。そうか、孝は書き込む派なのだな、と了解したのです。
一方で経済人代表、堀紘一氏は、読んだら潔く捨てる、と申しておりました。す、す、捨てる!?と驚愕しましたが、スゲースピードで出張の際に新幹線などで本を読み、全て頭に入れておいて、ゴミ箱に捨てるそうです。もし、再読したくなったら、また買えばいい、というわけです。金持ちですね。金持ちの振る舞いです。私のように同じ本を何度も読むことで幼少期の退屈さをやり過ごした人間とは、生きる世界が違います。じゃあ、世界線が違えば、私も本を(読んだら)捨てる人間になるかといえば、そうはならないのではないでしょうか。
いや、しかしです。どこかで本を捨てなければならぬとしたら、堀氏のありようもわからぬでもないです。それだけ読むペースが早いということでしょう。この調子で買って行ったら、すぐに部屋がいっぱいになってしまう。そんな予断のもとで、堀氏がそう言っていると思うのです。だから、僻み根性で、金持ち野郎の本の扱いが雑すぎる、と言わないようにいたします。
雑といえば、私も雑です。本の山が地震で崩れて、ピノノワール用のグラスが粉々に割れて、いつになっても、本の間からガラスの破片が出てきます。その度に自らの管理の悪さを呪いつつ、地震のクソ野郎と呪詛の言葉を吐き続ける、そんな感じです。ちなみに、二脚あったグラスのもう一つも、地震によってシンクに倒れ込んだモノによって破砕されました。情けない限りです。
それにしても、読書家ですら、人によって本の扱いがこれほどまでに違うのかと今更ながら気づいた次第であります。これに加えて、今は電子、これもあります。電子ですら、私もpaperwhiteをやめ、Fireを買うかどうか迷っています。どうも私のpaperwhiteは、タッチパネルの感度が悪い。これは私だけなのかもしれませんが、この少し遅れる感度の悪さによって、まだ電子はリアルの代わりになるとは言えない、そんな状況が続いております。
私は、本に書き込むことはせず、本を折る人なのですが、妻はそれを嫌がります。なので、我が家には本が2冊あるケースもあるのですが、果たして皆様のお宅はどのような調子なのでしょうか。
それにしても、本。これの扱いには、日々苦心すること多いです。読書家、蔵書家、さまざまな居るとは思うのですが、皆様、結局のところ増えていく本をどのように扱っているのか、少し興味があります。私の知り合いで、夫婦喧嘩の果てに全てゴミに出されたというウチもございます。その方の奥様も、また蔵書家であり、だからと言って家から本がなくなったわけではないようですが。
蔵書家夫婦という方は、おられるのでしょうか。noteの中にはどうやらそんなご夫婦がいらっしゃる雰囲気でもありますが、私の周りには、レアケースです。たいていは、どちらかが本に対しては冷淡だったりというパターンが多い感じです。結婚の理由を聞いたとき、「蔵書家だったから」という理由はあまり、聞きません。どちらかが読書家ならば、どちらかは本を読まない、そんなご夫婦が一般的であるように思います。
蔵書家の恋、あまり聞かない感じです。蔵書家といえども、外見や内面、相性、そうしたことにこだわるのでしょうか。本が好き、という理由で、結婚した、こうした方々もきっと広い世界には点在しておられると思うのですが、なかなかお会いする機会がございません。本が好き、交際の際には、もしかしたら秘匿しておくべき癖なのかもしれないですね。
古本屋の老いた店主の代わりに、奥様がお店に出ていることもあるのですが、そういった時に夫のこの職業について聞いておくべきでした。昨今は、あまり、そのような状況を見ることはありません。キャンプ場だと夫婦で運営している仲睦まじい2人をお見かけすることもないわけではない。しかし、書店においては、なかなか見ることができないですね。
その昔、私の家の近所にあった小さな書店では、ずっと奥様がレジにおられました。私が小学生で週刊少年ジャンプを購入していた時から、ファミリーコンピューターの『ミシシッピ殺人事件』の進め方がわからず少しずつ立ち読みして全クリアしたときも、中学生になってまだ成人指定になる前の遊人『Angel』を購入していたときも、高校生になって『Masterキートン』全巻を大人買いしたときも、大学生になって文庫本のカフカや谷崎潤一郎を買ったときも、私の側にあった町の本屋です。私はその後、東京に部屋を借りて、街を離れるのですが、最後の問い合わせについていつも後悔しております。
当時フランス書院の官能漫画をよく買っていて、一度手放したものを、もう一度買いたいなと思って、「これ取り寄せできませんか」と、さすがに声に出すのは憚られましたので、その恥ずかしいタイトルを紙に書いて、もう初老の域に達しつつある奥様に手渡したのです。すると奥様、「これは買い切りだから注文しても取り寄せはできないのよ」と、私の四分の一世紀を見通すような澄んだ目で、私を見つめて仰ったのです。私は、恥ずかしさのあまり、その書店には行けませんでした。そして、次に私がそこに戻ってきた時期には、葬儀の仲介サービスの会社に、なっていました。
私が小学生だった時、奥様は何歳くらいだったのでしょう。そこから十数年、私の読書遍歴をきっと、覚えていらしただろうと思います。セルジオ越後のサッカー教室を買ったのもそこですし、痴人の愛を買ったのも、そこの本屋でありました。一度、リニューアルして綺麗になって、広くなって、さあこれからという時に、世の中は携帯電話とインターネットが広がり、牧歌的な書店の安寧を脅かしていたのです。
奥様の眼を、今でも私は覚えています。きっと奥様は本好きだったと信じます。本好きならば、私がエロ漫画だけではなく、真面目な本も、普通の雑誌も、正しい書籍も購入してきた履歴を覚えておられるはずです。どれだけ私はそこの書店でマンガを大人買いしてきたか。フランス書院の再注文如きで、崩されるような歴ではありません。しかし、思い出されるのは、私の歪んだ性癖を見通すあの鋭い眼です。私はそれ以来、あの眼を思い出すと、ヘナヘナと力なく、倒れてしまう自分自身を自覚せぬことはありません。
なんのはなしでしたか。
すっかり話題がどこかへ飛んでいったところでひとまず終わりにいたしましょう。