【第2稿】ウィトゲンシュタインの助言 10
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私は知らず知らずのうちに涙を流していることに気がついた。大人になってからはそのことを気にせず生きてこれたのに、いざ言葉にしてみると、意外に重苦しい事実のように感じられてしまったのかもしれない。黒岩さんが家から出てくることもなく、周囲は静けさに満ちていた。時折、誰かがうめくようなオーーンという音が聞こえるだけだった。
前夜祭に行った。小室さん、弘海くんを除いた昨夜の面々、越門、神部さん、日野春がいた。やはりSNSでは呼べる範囲に限界があるのか。
「神ちゃん、久しぶり」私の第一声はそれだった。
弘海くんの妻を「神ちゃん」呼ばわりもないな、と心の中で思ったが、もうお互いに中年なのだから、そんなことをいちいち彼も気にもしないだろう。
「ナカさんがいるって聞いて、具合悪いけど来てみた」
「ちょっといいか?手首を上向きにして、手のひらを握って」
神部さんの脈をはかった。やはり速い。そして、首筋をみると明らかに甲状腺が腫れているようだった。
「いわゆるバセドー氏病かもしれないから、病院に行ったほうがいい。神ちゃんは目が大きいから、そこについてはよくわからないけど」と告げた。
「バセドー氏病?」
「甲状腺の機能が亢進して、様々な体調に異常をきたす病気だよ。簡単に言えば。甲状腺がぱっと見、腫れている。明らかに脈拍も早い。投薬したり、場合によっては手術をしたり、放射線治療したりするけど、治るよ。完治するというよりは異常を抑えて、長く付き合うという感じになるけどね。」
「そっか。いつも暑くて、汗ダラダラで、それも…?」
「そう。でもちゃんと検査しないと実際のところはわからないよ」
日野春が、おいおい!と声を掛けてきた。
「久しぶり。なんだか政治家にならんとしているそうじゃない。どうなの当選できそうなのかい?」
「前の地盤を持っていた人から、譲って頂いたので、それはきっと大丈夫だよ!」
選挙のことはよくわからないが、日野春のことだから、きっと落選するだろう。この男は常に楽観的で、事実と希望が区別できていないことがしばしばある。地方移住した直後も地元の新聞に酒と居酒屋のエッセイを連載していたが、人気だよ!という割には3回ほどでその連載が中断してしまった。初回のゲラを見せてもらって、赤を入れたが、私の指摘を受けて直してはいないようだった。
前夜祭は、昨日の後半のような軽い話に終始しており、個々の思い出話の類は興味深かったが、私の知りたいこととは乖離していた。
トイレから戻って、皆が徐々に酔いに支配されていくなか、神部さんの隣にさりげなく座った私は、単刀直入に切り出してみた。
「中学3年生の時、長期欠席したことがあったじゃない。あれって黒岩さんたちに何かされたの?」
神部さんは一拍置いて、
「うーん、覚えてないな」
と言った。
榊原さんも神部さんにとっては一味だと思っているはずなので、彼女の前でそのことを聞いたらそんな回答をするだろうことは予想できていた。
「長期欠席の時って、家で何していたの?」
「マンガを読んだり、音楽を聴いたり…だったかな」
そんな当たり前のことを聞いて、本音が返ってくるとは思っていない。
「黒岩さんって、今どうしているか知ってる?」
「知らない。」
会話が弾まない。当然だ。こんな場所で聞く話題じゃない。
小さな声で、訊いてみた。
「黒岩さんって…?」
そして、周りに聞こえるか聞こえないか、ギリギリの音量で伝えた。
「…。」
神部さんは驚いていた。
「あの時はごめん。もう少し自分が言葉を知っていて、他人の敏感さに自分がもっと敏感でいれたら、あんなことにはなっていなかったのかもしれない。」
「ナカさんのせいじゃないよ。誰のせいでもないと思う。」
「本当にごめん」
「あやまらないで」
「わかった」
日野春がおどけている。越門が、志村さんに告白している。既婚者同士が酔って遊んでいる。神部さんも弘海くんに連絡して、迎えに来てもらい、二人で先に出て行った。明日は同窓会だが、これで本当に人は集まるのだろうか。そもそも、会場を私は聞いていない。
神部さんが帰るのを察知していたかのように、小室さんが現れた。
「そもそも同窓会って、どこが会場なの?それで誰が幹事なの?照本?」
「小室さん家でやるんだよ。行ったことないだろ、豪邸だぞ。」と、鬼頭は言った。
「6クラス全員入るのか?」
「90人くらいは呼べる程度に庭は広いよ。それだって、さすがに来ても2クラス程度でしょ。こんなご時世だもの、そこまでたくさん集まるなんて思ってない。来たら来たでなんとかするけどね。」小室さんはあっけらかんと言う。
「B小、C小の出身者は、小室家の本当の姿を知らないからな。大地主なんだぞ。」鬼頭は誇らしげに言う。
「まあまあね。」小室さんは言われ慣れているのか、平然と言う。「お金があったとしても、本当に欲しいものって手に入らないものだけれどもね。」
「そうかなあ。お金があれば、もっと何かできたかもしれないと思うけどなあ」と、酔った志村さんが会話に参加してきた。
「どうしてそう思った?」小室さんと志村さんが話しているのは、中学のときにも見たことはない。この二人は一年生のときに同じクラスだったはずだ。
「私のうちは兄弟がたくさんいて貧しかったら、麻奈美ちゃんのことずいぶんうらやましく思ったもの。お金持ちだし、かわいいし。」
「でも、弘海とはうまくいかなかった。奈緒子の家よりももっと大きなお店を出してあげられたのに。」
「うまくいかないよね。わかるよ。私も、ずいぶん男には好かれて来たけど、いざ自分が好きになってみると、うまくいかない。どうしてだろうね。」志村さんは、日野春と騒いでいる鬼頭の方をチラッと見ながらつぶやいた。
「それでもさ、有希ちゃんは御主人と仲良さそうじゃない。」
「バツの経験があるからかな。あれはきつかったよ。出てったきり帰ってこないんだもの。聞いたら実家で引きこもっているって。自分がどんなことをしたのか、考えちゃった。それ以来は、昔みたいに正義感でモノが言えなくなった。」
「どこまで言っていいかわからなくなるよね。」榊原さんが、近寄ってきた。
そういえばこの三人は一年生のとき、4組で同じクラスだった。
「言い過ぎちゃうのよね。」榊原さんは言う。「トーンが強くなっているのに気づかないで、自分としてはいつもの延長のつもりで言ってるのだけれど、向こうにしてみれば急に激昂していると思うみたいね。」
「有希ちゃんは、鬼頭にキチンと言えたの?」
「うん。率直に言葉にしたら、なんだかどうでもよくなっちゃった。」
「既婚者同士だし、もう私達50近いからね。有希ちゃんは昔と同じでかわいいんだからいいじゃない。鬼頭なんてただのデブだよ。」榊原さんは、ニタニタと笑う。
「有希ちゃんって、そんなにいつまでも昔のことを引きずるようには思わなかったけど。」小室さんが言う。
「SNSって、ちょっと、昔の自分を思い出す瞬間がない?」
「どういうこと?」
「なんか、母であったり、カフェオーナーだったりという役割から離れて、一人の人間として有らないといけない空間というか。そうした肩書をとっぱらったときに、自分が出せるものってなんだろうと思ったときに、10代の自分が思い出されるっていうか。そんなとこない?」
「それちょっとわかるかも」榊原さんも同意する。
「ちょっと、話に割り込んでいいかな?」私は声を発した。「そもそも、この同窓会の発起人は誰なんだ?」
「黒岩さんだよ」小室さんが言った。
「そうなの?黒岩さんは元気なのか?今何をしているんだ?」
「実業家っていうのかな」小室さんは思わせぶりに言う。「由樹子ちゃんが、私に久しぶりどうかなって、持ち掛けて来たんだよ。SNSでつながっている人だけ集まればいいからって。」