
楽山園へ 〜西上州への弾丸旅〜
9:00。
行こう。
計画付与された有給日。
全員収まるところに収まって、今日は仕上げる仕事もなく、日中ある程度の時間が取れる。
小旅行。
先日、甘楽PAでトイレ休憩した時に思い出した楽山園。
織田信雄がプロデュースした庭園。
下道で行こう。
出発はいつも川島。

天気は曇り。
いい写真は撮れないかもしれないが。
古凍交差点から東松山方面に。

とりあえず、嵐山の直売所による。
並んでる。

朝イチなので商品はある。

ナスが安い(7~8個入って111円)。
気を取り直して出発。
254号沿いは、農産物直売所銀座。
川島、東松山、嵐山、小川町(2カ所)、男衾、花園。
たくさんある。

寄居から児玉へ。

埼玉県民も良く分かっていない美里、児玉、神川。
パワースポット。

藤岡から、無理に下道で行く必要はないと思った。というのも、ゴルフ場近傍は道路が整備されてなく、すれ違いができないところもチラホラ。山中でしばし迷う。
平井城といえば、管領上杉家の居城。
なんやかや11:30ごろ到着。

かんらちゃん。誰感が強い。

道の駅から川沿いを通って、ちょっと大きな道を左折すると、楽山園の駐車場がある。私のように、この暑さで、せせらぎの道を歩いて、楽山園に向かおうとすると、溶ける。

ここは群馬だった。

立派だ。

織田信雄というと、信長の次男で、本能寺の変によって長男の信忠が殺されて、継承権があるのに、秀吉によって信忠の子・秀信の後見人にさせられ、小牧・長久手の戦いでは、家康の持久戦を知りつつ和睦して、秀吉にも家康にも何度も改易されて、出羽だのなんだのに流され、大坂の陣では総大将に祭り上げられるかどうかの瀬戸際で家康について、最終的に奈良の宇陀と上野の小幡(ココ)に5万石を。

信雄は宇陀にいたそうだから、ここにきて、庭園を実際に企画したのかどうかは知らんけど、「プロデュース」は信雄だろう。
「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」にちなんだ「楽山園」。
我々のストーリーでは信雄は愚鈍な人に描かれることも多いけれども、戦国を生き延びて、小さいとはいえ、四神相応の場所に小楽土を打ち立てたのだから。


池は二つあって、一つは飛び石で飾られている雄大なもの。
もう一つは睡蓮で飾られている、夢幻なもの。

これらは借景として使い分けていたんだろうなあ、と推測。
大きな池の西には、小高い丘が。

そして、その上には、四阿が。

乗ってもいいらしい。大名気分で、池を眺めた。

中腹には、池を眺めるための建物も。昔からあったのかしら。

どこの角度から見ても、何か趣向が凝らされている楽山園は、人も少ないし本当に小楽土だ。暑くなければ、もっと。

次に、お茶をふるまってくれる場所から見える睡蓮の池。

現世と彼岸が背中合わせになったような風情。

さて、帰ろうか。

復元された家屋の中には、上がれるスペースと、資料コーナーが。

資料コーナー。

一度、明和事件で、転封になってるんですね。
明和事件というのは、山県大弐という学者が「尊王論」(つまり天皇が一番偉いという思想で、徳川幕府の権威をひっくり返す可能性を持つ思想)を講じて、小幡藩の連中を弟子にしていたものだから、小幡藩の権力争いに巻き込まれて、山県は処刑、織田小幡藩は転封されてしまったという顛末になるわけですね。
駐車場まで、町並みを見ながら歩きます。

最後にここに来た松平家の大奥は、この家だったそうです。普通に住んでらっしゃるので、好き勝手はできません。この大奥には、ペリーの愛妾たちも泊ったらしいですよ。

気持ちのいい道です。さすが、四神相応。

武家屋敷を一周して帰ります。

大手門は、内大臣の家系なので、格式高い人しかできない設計だったらしいですよ。

高い場所なのに、水の音がして、心地よい。

街中には資料室のようなものもあって、昔の茶屋だそうです。

広告のコレクションが面白い。

大勉強。

楽山園は、鉄道からも遠いし、高速道路も下車するところが若干遠いので、中々行きづらいところとは思いますが、小諸と同じで、ほどよく昔が保存されています。

かなりコンパクトな街ではありますので、こんにゃくパークとか、富岡製糸場などとセットちゅう感じでしょうか。風情を楽しむという感じですね。
個人的には、信雄のような形で生き残るのが理想です。小さくても、おのれの世界を確保できた信雄は立派です。ビバ信雄。大河にもきっと出てるでしょうから、ついでに楽山園どうですか?