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乱歩と利一の覚書

poe, denim jacket, mysterious でやったら、まんまとデニムジャケットを着たポーが、油彩調のイメージで出て来た。キャッチアイの面積が少なすぎて、一端だけになってしまっているのが、口惜しいけれど。

村松定孝編『近代作家エピソード辞典』という本があり、もちろん、江戸川乱歩も掲載されている。誰が、どのように、聞いて記録したのかはよくわからないのだけれども、興味深い話が記されている。

村松氏だと思うけれども、「『孤島の鬼』で、主人公が古井戸の底から通じる横穴へ忍び込む場面に、右記の『即興詩人』が文語文のまま引用されていたのを記憶しているからだったのだ」と書いている。

そうなのか。

乱歩の『探偵小説四十年』(昭三六)によると、かれは三重県の鳥羽の近くの小島に保養に出かけた際に、この小説の想をえたらしい。だが、作中の犯人が奇形型人間製造をこころみるのは、鴎外が『ヰタ・セクスアリス』で『虞初新誌』にある、赤子を四角の箱に入れ、四角に太らせ見世物にする話からヒントをえているとも考えられる。

乱歩の想像力の源は、案外、鴎外にあるのかもしれない。太宰も鴎外が好きだし、私も鴎外が好き、かもしれない。

横光は。

中島健蔵氏から聞いた話だが、一緒に瀬戸内海を船で旅をしていたとき、対岸の燈台のサーチライトが海を照らしているのを眺め、「あれは、われわれを歓迎してるんですな」と、叫んだ。本気で、そう思っているかのようだったという。銀座の長谷川という料亭で会合のあった席で、それぞれ文学談の最中、いきなり、「長谷川のビールはうまいですなあ」と感慨をこめて発言した。店主への単なる挨拶なのか、本当に、そう信じていたのか、皆は、ただ唖然とするばかりだった。

これは、普通じゃないか。でも、割と空白のあるトンチンカンさが、横光にあるのかもしれない。実際『春園』の会話とか、私からすると、三つくらい飛躍があるんじゃないかと思うしね。

さて

次に読もうと思っているのは社会学者の内田隆三の『乱歩と正史』であるが、これは中川右介氏の『江戸川乱歩と横溝正史』とタイトル、めっちゃ類似しているけど、編集者OK出したんだと思って喫驚した。

まあ、内田先生からしたら『探偵小説の社会学』の延長上で、おそらくは、研究結果の社会的還元として出しているものかどうか、判別できないものなので、同じタイトルでもいいじゃんという考えだったかもしれない。厳密に言うと、タイトル同じではないので、邪推と言われればそれまでだが。

と、思ったら、この2冊、どっちも2017年刊行なんだね。ニアミスなのか。

メチエの内田本の方が、2017年7月10日第一刷、集英社の中川本の方が、2017年10月31日。ああ、なるほど、きっともう表紙も出してるし、まあ致し方ないのかな。

『探偵小説の社会学』の中で、『吾輩は猫である』の一節が引用され、探偵批判をするところがある。つまり、近代人は、探偵的、ないしは、泥棒的に、なりすぎて、窮屈になっているという指摘だ。要するに、何かを見つけようと、あるいは何かを見つけられないように、自覚合戦を自己の中で繰り広げているから神経が衰弱しちゃうのだ、という指摘。

自己観察と再帰性が近代的個人の条件ではあるから、そうなのかもしれないね。

内田先生の『乱歩と正史』、さらっと読んでみたけど、中川さんのものとは、追求の方向が違うね。中川さんの場合は具体的な評伝だけど、内田先生の場合は、乱歩の書くものは大正期に現れた認識の同一性の揺らぎの具体的現れとして、芥川の「藪の中」や志賀の「范の犯罪」があったり、谷崎の「金と銀」があったりする延長上に出てきた、同一性の揺らぎそのものを題材にする推理小説であるということなのかもしれない。

二銭銅貨も、D坂の殺人事件も、探偵行為を行なって真実が明らかになった途端に、それが別の人によって疑問視され、真実は宙ぶらりんになる。そもそも、探偵の推理も、相手が観念するから事実として認定されるのであって、突き詰めていくと想像に過ぎない、ということかもしれない。「一枚の切符」も確かに、鮮やかに犯罪を解きながらも、あった場所が実はズレていて、そのズレを補正したら違うストーリーが出てきただろうと、言う。

こういう同一性の不安、要するに「実際真実とは何か決めかねるよねー」という認識、それが、社会的に〈あるある〉として共有されて、それを踏まえたエンタメこそ、本格推理小説だったんじゃない、という話なのかな、と最初だけ読んで思った。

最初だけだけど、読んだの。

家出ようとしたら、犬のウンコが落ちてると思って、マジマジみたら落ち葉のようだったので、焦らせんな、と蹴り飛ばしたら、やっぱりウンコだったという。

あゝ、悲劇。

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