ダンディズム・ノート 4 ~生田耕作『ダンディズム 栄光と悲惨』~
1815年、ナポレオン戦争が終わる。このナポレオン戦争の前に軍隊をやめ、社交界の寵児となった、ジョージ・ブライアン・ブランメルには、戦争自体の余波は涼やかな風に過ぎなかった。
しかし、思いがけないところから、その余波は出た。
ロシアやプロイセンの将校が、イギリスのカジノに出没し、大金を賭けて遊ぶようになった。
賭け事に秀でていたブランメルも、衆寡敵せず、たちまちに持ち金を溶かした。溶かしたところで、うろたえるなどダンディにはふさわしくない。涼しい顔で借金を重ねた。
そして、工面が出来なくなったところで、フランスへ亡命することになる。
1816年のことである。
もう一度、年表
『ダンディズム 栄光と悲惨』の第2章「落日の栄光」では、この没落のプロセスが書かれている。
ブランメルが落ち着いたのはカレーの街である。そこの小部屋をふたたび、趣味の部屋に変えた。そして、信奉者たちは、奉仕としていくぶんかのお金を渡し、なんなら訪れた。
これ以降は、年表的なものはない。
習慣の力は崩れることなく、傲岸に、そして洒脱に、暮らした。
あだ名は「ジョージ、ベルを鳴らせ」だった。
これは、作り話だと思われているが、皇太子に対して「ベルを鳴らせ」といったことで、仲たがいが始まったというエピソードからとられている。
1821年 国王となったジョージ4世は、ブランメルのいるカレーを訪れた。それをブランメルも知っていた。姿も現した。しかし、傲岸にもジョージ4世の和解を拒否した。さりげなく。
1830年 ジョージ4世が亡くなり、ウィリアム4世に治世が変わる。ブランメルをカーンの領事に任命する。彼はカーンに引っ越す。
時々パリに呼ばれて、文学者たちと交流する。ここでも、ブランメルは傲岸だった。
ブランメルは、カーンでも傲岸なふるまいをくずさなかった。そのため、領事を解任され、借金はふくらみ、投獄されることとなった。
旧友たちの献金によって、釈放されたが、もうお洒落を維持する財力は残っていなかった。白いネクタイも、黒に替えて、汚れを目立たなくさせるのだった。
彼の服装も時代遅れになった。子どもたちは、みすぼらしくなった時代遅れの老人に嘲罵を与えることを覚えた。唯一、ある一家だけが、彼の居場所を用意してくれた。
ある日、1人の英国人が、ブランメルに謁見を申し出た。すでにブランメルは痴呆になっていたと思われる。声をかけても、ただ首を振りながら、鬘に油を塗っているだけだった。
1840年に、ジョージ・ブライアン・ブランメルは、老人ホームのようなところで、息を引き取った。
*
なんで、こんなに性格の悪いブランメルが、それでもなお社交界の規範を維持できたのか。友人たちは、その都度、彼に献金したのか。それが、さほどの金でなかったとしても。
ブランメルは、もしかすると、自分が言いにくいことを言ってくれる人だったのではないか。ブランメルは誰にでも傲岸で、自分のスタイルを崩すことはなかった。それが、ある種の代理的なカタルシスを生んだのではないか。
そして、彼はオシャレだった。オシャレのスタイルを崩さなかった。その影響は、どこまで広がっているのかわからない。