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こまつあやこ『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』

私にも2人ほど子どもがいて、上の子は今5年生である。いわゆる中学受験というものを控えて、勉強をしているが、全般的に難がある。特に国語はある一定のレベルから上がらない。

国語はセンス、などという使い古された常套句はまったく信じてはいないが、文章を読む経験を増やしていかないと、運動と同じように、いきなり走ったところで、練習をしている人にはかなわないことになってしまう。

ただ、どうしても他の科目に比べて国語は、一応母語として話したり聞いたりできるものだから、あとまわしになりがちである。したがってスパーリングのような試験問題はあとまわしになっても、基礎訓練のような文章を読む経験は積ませたいものだと思って、通っている塾のテストの出典となっている本は買い揃えて、子どもの机に並べている。まったく読んでくれている様子はないが。

そんな折、この『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』は、熱心に読んでいた。何とも不思議なことだわい、とその秘密を探りに読んでみることにした。

あらすじ【オチあり】

小学校の途中でマレーシアへ引っ越し、中学2年の9月に編入してきた花岡沙弥。中途半端な時期に「帰国子女」として戻ってきたことを気にしながら、なんとかクラスに溶け込もうとしている。わざわざ公立の学校に編入を決めたわけは、かつての小学校でほのかな憧れを抱いていた藤枝港がいるからだった。しかも、同じクラスになれた。しかし、港はあまり教室にいない。給食も。

そんな折、「督促女王」とあだ名される三年生の佐藤莉々子が、花岡を吟行に誘う。短歌を作る営みに誘っているのだ。強引に付き合わされる沙弥だが、だんだん吟行が楽しくなってくる。しかし、クラスメイトの入っている部活に誘われ、吟行と時間がかぶり、思い悩む。結果、心にもない一言を言ってしまい、誘ってきた莉々子を傷つけてしまう。

莉々子と和解しようとする沙弥。その過程で、莉々子もまたどこかの私立中から転校してきた人だと知る。マレーシアへ帰りたい思いが募る沙弥だが、なんとか莉々子と仲直りできる。様々な背景を話す中で、お互いに対する理解を深めていく沙弥と莉々子。そんな折、沙弥の母親の様子がおかしい。赤い下着などをつけて外出する姿に、沙弥は浮気を疑い、莉々子と一緒に後をつけていく。結果、誤解とわかる。しかし、沙弥と莉々子はお互いを理解する。

席替えがあり、ほのかにあこがれていた藤枝と隣同士になる。給食のときに、机を動かそうとしたとき、男子のふざけに対応して、机が揺らぎ、中からタンカードと呼ばれる短歌を書き留めておくカードを見つけてしまう。ある思いに沙弥はとらわれる。莉々子と藤枝は短歌を通じて、すでに惹かれあっているのではないか?しかし、莉々子は藤枝が自分から距離を置き始めたことを自覚している。沙弥は一肌脱ぐことにする。

沙弥は、藤枝の家に莉々子と一緒に行く。そこで、藤枝の新しい母親がイスラム教徒であり、家族で帰依したことがわかる。藤枝もまた、イスラム教徒としての習慣を身につけなくてはならないのだ。藤枝が、給食のときにどこかに行きがちなのも、そうした食習慣の違いにあり、それゆえにクラスメイトたちからからかわれるのが煩わしくて、学校に行き渋りがちとなっていることを理解した。しかし、莉々子からも離れた理由は何か。その鍵は、かつて莉々子が送った短歌にあると踏んだ沙弥は、莉々子と藤枝の間の誤解を見事に解いてみせる。

日常に戻り、お互いの場所を確保しあい適切な場所に収まった三人。沙弥だけが少しだけ思いが残るが、そうしたモヤモヤは短歌にしていこうと思う。

感想【オチあり】

大人が読んでもまあまあ余韻が残って面白い本作。様々な私立中学校が、この文章を問題として出題しているという。Amazonでも、そうした出題校が多いことを売り文句にしている始末。確かに、小学校高学年くらいであれば、こうした内容は読めるようになっておいてもいいのかもしれないと考えたが、果たしてどこまで読めるのだろうか。

子どもの塾が国語テキストで出題していたのは中盤、吟行に誘いにきてくれた佐藤莉々子先輩と同級生の友人の朋香の誘いとの間で、どっちつかずに悩む沙弥の姿を描いたシーンである。

しばしば学校生活の中には、重要な選択と決断がある。大人からすると、そんなことはどっちを選ぼうともいずれなんてことはなくなる、とわかるのだが、思春期の世界はこんなことが一番重要だったりするのだ。

この作品、異文化理解についての難しさと、理解に必要な寛容さについて、記してある。

思春期の子どもたちは、異文化について好奇心が勝り、先入観が少ないがゆえに、その寛容という姿勢を自然に身に着けることができると思われている。しかし、一方で、先入観がすでに形成されてしまっていると、それを解きほぐすのは難しいし、先入観の存在を先回りして恐れてしまって、藤枝港のように内向して閉じこもってしまうこともありうるだろう。

結局、異文化は「違いとしてあるということ」(要するにその差異に序列はない)をお互いに認め合うことだけが、必要だと述べているかのようだ。そういう意味で本書は多文化主義的前提に立つ。教室の中ではその認識を徹底していくことが最適解だろう。

学校での友人コミュニケーション、異文化理解ともう一つ、この本には恋愛という主題がある。

中学生的恋愛なので、ここでは、ほのかに生じた好きという程度の感情なのだが、生じてしまった気持ちを、どうやって無きものに沙弥はできたのか、という問題は、意外に日常の教訓として生きるかもしれない。

本作では沙弥がキューピッド役として、莉々子と藤枝港をくっつける訳だが、そうする事で得た失意を短歌を詠むことで昇華してやろうと、非常にポジティブに自身の失恋体験を健気にも経験の一部として組み入れようとする態度を取るのだ。でもそれってホントにうまくいく?

さらに、ここも試験には出せないだろうが、沙弥の異様なほどにおせっかいな行為に対して、莉々子も港も何かを気づいてほしいところである。その上で、ある気持ちが犠牲になった上で、自分達の恋愛関係が成立しているということに敏感になってほしいと思う。

とくに藤枝港に関しては、様々な問題を自分の殻に閉じこもるという態度でやり過ごそうとしていただけに、ただただ苛立つ。結果、二人の女子がポジティブにお膳立ても告白も色々やってあげて、話がまとまっただけで、藤枝は何もやっていないでうまくいった男になっている。

そもそも藤枝は、莉々子が微妙な短歌をよこしてきた時に、内容と問いただしもせず離れていっただけではないか。この短歌にはどんな意味はあるのか、ということをキチンと読み解こうという努力をすべきではないのか。このまま港が大人になったら、きっと育児もせずに仕事に疲れたと部屋に閉じこもってスマホゲームに興じる夫が一人出来上がるだけではなかろうか。

ま、要するに、なぜ藤枝港のような男が美人のパイセンと都合よく付き合っちゃったりできるのか、というジェラスに基づく感想に過ぎないのだが、もしこれから読む人は藤枝港の人物について注視しながら読んでほしい。

でも、タイトルはすごくいいですね。あー、そうなんだーって素直に思った。

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