【第2稿】ウィトゲンシュタインの助言 7
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「おとうさんの話、いつも主人公が死ぬの、何とかならないもの?」
娘があるときに聞いてきた。
「たいてい、弱いものをかばって強い人が死ぬけど、かばった人も不幸に見舞われるでしょ?ハッピーエンドをつくりたくないの?」
「ハッピーエンドって、あるのだろうか。確かに物語は有限のものだから、そこで切れてしまう。しかし、現実は人が生き残っていれば、今までの記憶を持ち越しながら、時間は続いて行く。あとくされなく、すべてが解決することなんてないじゃないか。」
「それはそうだけど、虚構って、お話が架空のものである以上に、オンとオフを切り分けられることのできる時間っていうことじゃない?登場人物が幸せになっても、亡くなっても、どちらにしてもオフにするなら、幸せであった方がマシなんじゃないかしら。終わらない小説なら別だけど。」
「もう一つのモチーフとしては、どちらにしても結果がバッドエンドになりそうなときに、善のありかたをどう考えたらいいか、っていう問題を追求したいっていう気持ちもあって、弱いものが死ぬのはバッドエンド1、弱いものを助けて自分が死ぬというのもバッドエンド2、それしか選択肢がないとしたら、結果から善が導き出せない以上、目的から善を導き出さなきゃいけない。その「目的から善を導く」ということを考えているとも言っていい。」
「それでいうと、弱いものが死んで、自分が死なないでいるというのはグッドエンドじゃない?」
「それは疚しさを抱えて生きながら得ることになるからバッドエンド3だと思う。」
「そうかしら。遺されるかもしれない人たちにとっては、グッドエンドじゃない?」
「ちょっと待って。遺されるかもしれない人々というのは、主人公に依存しないと生きて行けない人だというなら、それは違う。主人公の生死にかかわらず、遺されるかもしれない人たちも、善を実現するために自律的に生きなければならないと思う。」
「そこでいう善って、何なの?おとうさんの仕事でいえば、患者さんを助ければ善なんじゃないの?」
「何度も言うけど、結果から考えた場合、不治の病の人を治療する行為は善にならない。災害の際にトリアージせざるを得ない状況になっても、善は発揮できない。結果から善が生じると考えると、悪事を犯しても結果がめぐりめぐって善になることもある。それは、やはり、承服できない。」
「でも、いつも嫌な感じで終わるから、世間ではイヤミス扱いよ。全然、そのメッセージや考えていることが伝わらないじゃない。」
家族と会う時間の中で、娘はときおり疑問をぶつけてくることがある。私も答えることができないような疑問もあるが、そういう場合は、率直に考えていることをぶつける。
凪のような時間。幸福とも不幸とも言い切れない時間。今まで、自分の生の延長を書き物に書いてきた。自分の書いたものはすべて取ってある。その中から一つ、取り上げて読み返してみた。
医学部に入学しようと勉強していたころのやりきれない葛藤が書き出されている。すべて一人称の文章になっている。世界に対する呪詛。それをひたすら垂れ流す小説。
人間は成長しないという説もある。同じところをぐるぐる回っているだけだとする考え方。ところが、同じところをぐるぐる回りながら螺旋を描くように上昇していくとする考え方もある。人は生まれて死ぬという円環運動を行う。それはすべての人類に課せられた運命なのかもしれない。
しかし、その円環運動は、何かのきっかけで螺旋を描くように輪を大きくしながら上昇していく。ならば、少しずつ人類はどこかに向かっている。その向かう先が「理念」と言われるものだと、誰かは言った。「理念」を見失うと、途端に人類の螺旋は円環に逆戻りして、同じ過ちを繰り返すようになっていく。
プラトンやカントといった哲学者を読んだ時、この「理念」なるものは、人類の外側にあって、人間とは別個に存在しているもののように感じた。外側にあるがゆえに人類はそれに義務として従うことが求められる。それに対して、アリストテレスやヘーゲルといった哲学者は、「理念」の実現を目的として論じていた。「理念」は私達の内側にあって、実現や開花を待っている。「善」もその私達の内側にある理念の中の一つだろうと。
「善」は人々の外側にあって平等なのか、それとも人々の内側にあって平等なのか。昔は外側にあるから大切なのだと思っていたが、外にあるものを人々が信じることができない時代に至ったのだとすれば、もう一度私達の内側にあると仮定してみることも必要なのではないか、と思い始めた。
私が掻き立てられている「過剰さ」は、この内なる種の中身が萌芽しかかっている状態なのかもしれない。
「おじさんになると、変に正しさとか善さみたいなものに気づいて、それをしきりに人に問うようになるよね。おとうさんも、それ?」息子がある時、問うてきた。
「そうかもしれない。アリストテレスだ、善だ、正義だ、とか言いながら、理念的なものに目覚めて、それの社会的実現を目指すために言論を開始するという一つの症候が、自分にもあるのかもしれないな。」
「それってつまり「おじさん問題」?」と、息子は笑った。
「なるほど。「おじさん問題」はいいネーミングだ。社会的正義に目覚める「おじさん問題」か。私の「探し物」は若いときにはアイデンティティだったかもしれないけれど、50歳にならんとしては「善」といった理念の実現の具体的現われ、なのかもしれないな。」
*
私は、アイデンティティ問題から「おじさん問題」へと、人の「探し物」が変化していくのも、ある種の自然性なのかもしれないと感じ始めた。
6人の話をまとめながら、「探し物」を探さない鬼頭、アイデンティティ問題をいつまでも追求している照本、政治家に転身した日野春、色々あるなと思い始めた。
それを今度の小説のテーマにしてみよう。そのことについて、明日以降の同窓会の前夜祭では聞いてみることにしようと思ったところで、睡魔に襲われた。