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本の廃棄を検討する 7

アップしても実は閲覧数はそれほど伸びない「本の廃棄を検討する」シリーズは、常連さんにのみ、何かを発信するコーナーになりつつある。

何を発信したいかというと、私はこれだけ本を拾ってめくったものの何一つ人生に寄与しなかったけれども、思い出だけがただ残るという状況ですよ、ということ。

本を読んでスキルアップしたり、知的になって人生イージーモードにしたり、ということはなんというかスタンフォードに行けば人生勝利と同じように、現代の幻想のように感じるけれど、本を求めた気持ちにはやはり切実なものがあって、その切実さが自分の人生なのだなあ、と詠嘆するその姿だけが伝わってしまうということかもしれない。

森田章『インサイダー取引 証券市場と日本人』(講談社現代新書 1991)

これ板橋区立図書館の除籍本を貰って来たものなのだけれども、アマゾンで8000円以上の値付けがされていて、ちょっと待てよという気持ちになる。

森田章氏は、すごいしっかりした書籍を、近年も刊行されていて、キチンとした学者なんだなあと思わせられる。1949年生まれだから、うちの母親と同じ年なので、もう引退されているかもしれないけれども。

内容はごめん、まだ読んでない。

もともと経済学部に行きたかったし、自分の感性は通俗的なもので、文学部のような超絶仙人みたいな人たちばかりいるところは向いてないと思ったし、今でも正直向いてないと思う。

まだ読んでないので捨てられないかも。

三枝和子『ギリシア神話の悪女たち』(集英社新書 2001)

ギリシャ理解関連本の一冊。値札がないけど、これAmazonでじゃあ、買ったのかな。新刊で買った記憶はほとんどないけど。

全体的に「悪女」といわれるギリシア神話の登場人物たちが、ジェンダー的な区分をなぞるように配置されていることを批判する本。

そもそも海外の女性研究者が神話世界に触れた時に、どうして物語の中で女がこれほどまでに憎まれ役をあてがわれる頻度が多いのか、という疑問から文学作品のジェンダー読解が萌芽してきたわけだから、指摘は順当。

そうした主張の一方で、悪女的なエピソードも盛り込まれている。

捨てないです。

邦正美『舞踊の文化史』(岩波新書 1968)

身体芸術が自分は好きで関心があるのだけれども、観客としては非常に拙く、感性がうまくハマって行かないので、とにかく文字で摂取しようと、リサイクル本を貰って来た経緯の一冊。

ストーリーの新奇性よりも、そこにいる人間の強度が身体芸術の見せどころなんだということは、コロナを過ぎてやっとわかってきた。自分はZoomのようなリモートでのコミュニケーションでも全然平気と思っていたけれど、やっぱり身体が同期することで得られる感動もあったのだなあ、とこの3年間で、理解が進む。

コロナ禍で得られた割とポジティブな認識かもしれない。

というわけで捨てられないんです。

原二郎『モンテーニュ 『エセー』の魅力』(岩波新書 1980)

奥本大三郎先生もそうだけれども、フランス近世の研究者は、それ一本で何かを成し遂げるという傾向があるように思った。昔、埼大前に「大學書房」という古本屋があって、奥本先生が本を売りに来るので、その売られた本を自分が買い取るという流れが出来上がっていたことを思い出す。

原二郎氏も『エセー』の完訳を試み、エセー一筋に生きた人で、そういう情熱をみると、やはり感動する。なんというのかな、自分は目移りが激しい人間で、一本でやるということがなかなかできないので、情熱の本には情熱でこたえたい。

捨てない。どこで買ったかはっきりと覚えてないけど、30円の値付け。ビックリマンチョコの一個と情熱が同じ値段て、おかしいでしょ。この30円をもっと価値のあるものに変えて見せる。

松葉一清『パリの奇蹟 メディアとしての建築』(講談社現代新書 1990)

建築をメディアとして読む、というスタイルも一時期流行って、今はあまり見られなくなったもの。五十嵐太郎さんとか、結構好きだったんですけどね。

前もどこかで書いた薩摩雅登先生の「芸術はすべて建築から出てきた」があるので、建築にはとても興味があって、建築論など、建築・設計をしたことも考えたこともないのに、そんな本を集めてしまっている。

なんだろうなあ、こういう知見、持っててももういいこともないのかもしれないけど、これも時代の史料になるかもしれないので、まだ持っておく。

エリク・ド・ロリエ『書物の歴史』(白水社文庫クセジュ 2004 第9刷)

白水社の文庫クセジュは、今後市場からなくなってしまう可能性も大いにあるので、集めないとなあなんて思っていたところなので、どんな内容でも捨てられない。

じゃあ、一向にお前は本を捨てる決断をしないじゃなねーかよ、と言われそうで、その通りです、すみません、と言わねばならぬかもしれない。

こういう、メディア自体を客観的に眺めるという内容の本も、マイブームだったんだよね。参ったな。捨てられない。何も捨てられない。

渡辺順子『日本のロマネ・コンティはなぜ「まずい」のか』(幻冬舎ルネサンス新書 2010)

250円でブックオフで買ったものだな。ワイン本関連の収集によって得られているので、まあ捨てないと思うけど、基本はどういうことかというと、日本に入って来るプレミアムワインは管理状態がいささかなことが多くそのせいで「まずく」なってしまう可能性が高い、というのが、本書のタイトルの答えであった。

ああ、そうだよね、というもので、これならブログでよくね?と思うものの、残りはプレミアムワインやオークションの小話があって、これは初心者だった私にとっては勉強になったんじゃないかな。

捨ててもいいけど、まあ、タイトルで引っ張って、中身はそれ以外のもので満ちているという形式を史料としておいておくのもアレだろうか。

とうとう、ウェイストできるのか?俺。

まあでも、なかなかいざ捨てるとなると、難しいものですね。

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