原田宗典・東京・平凡 〜ノートブック4〜
原田宗典の『東京見聞録』という昔買ったエッセイがあったので読んでみた。
1990〜1991年ごろに、ホットドッグプレスで連載していたエッセイらしい。
原田さんは1959年生まれで、エッセイ中でも言ってるように、連載時は31歳だったという。
ちょうどバブルの頂点の時期に当たる。
私は、16〜17歳だった。
郵便局の年賀配達と、バッテリーの蓋を作る成型工場、川口オートの売り子や食堂の皿洗いなどの雑用、そんなアルバイトをしながら、ダラダラと過ごしていた。
ゲームしたり、勉強したり、音楽を聴いたり、麻雀したり、と凡庸で根暗な高校生だった。
渋谷区の高校にいきたくて、渋谷区にある私立高校を受験したが、全部落ちた。その願書を取りに行ったり、合格発表を見るために、渋谷に出て、そのついでに街並みをみて、いつかこんなところで働きたいと思っていた。
それが叶わず、腐った高校生をしていた。
いや、実はホッとしていたのかもしれない。
そのような華やかな都会的な雰囲気に実際行ってみたら、適応できなかっただろう。
いきなり都会に出るからいけないのだ、と、川の向こうの板橋区西高島平や北区赤羽で、東京に順応するトレーニングをしようと友人に持ちかけた。
俺たちはあのビル群に気圧されている。とりあえず板橋区のバッティングセンターに通って、板橋区民に偽装することで、都民である気持ちを実装しようと、友人と休日のたびに笹目橋を渡り、バッティングセンターに通い、板橋区を知ろうとした。
そのうち、板橋区より向こうの練馬区に進出しようとした。そして、光が丘の巨大なマンションに近未来を感じた。
後に練馬区に住んだり、板橋区に住んだりするのは、この時の体験が響いている。親しみがあったのだ。
都心に進出するために、一つの策を弄した。受験のために、もっとレベルの高い予備校に行きたい、といい、資金を無心した。当時は都心の予備校に入るのにも試験があったので、それを受けたら意にそまぬ校舎にあてがわれた。
これではいかん、と、大手予備校ではない、気鋭の小さな塾を選び、そこに通うことにした。それはお茶の水駅にあった。
部活をやっていなかったのか、と聞かれるけど、その当時は柳沢きみお先生が私の先生で、「授業が終わった後に学校にいるなんて不健康だ」という『原宿ファッションストーリー』のキャラクターの言葉を真似て、学校じゃないところにいることにした。
外食と言ったら吉野家くらいしか知らなかった自分が、「キッチンジロー」に入ったのはいつだっただろうか。眩しくて、足元がフワフワして、食べてる味がしなかった。
近所のラーメン定食とか、もやし炒め定食とか、そのレベルでとどまっていた自分が、こんなおしゃれな洋食屋に入っていいのか、と震えた。
お茶の水駅前には丸善だったか本屋があった。少し歩くと古本屋街があった。その頃は別に本などを読む人じゃなかったので、楽器屋でエレキギター初心者用セットも買った。
徐々に東京にも慣れてきた。
洋服屋にはなかなか入れなかった。
せいぜい、外苑前にあったエディーバウワーの店舗を外から眺める程度が、自分の容姿では限界だと思った。
埼玉県にも服屋はあったが(そりゃあるだろう)、ロードサイドのジーンズショップか、改造制服を作ってくれる服屋か、妙なテーパードのボンタンみたいなスラックスを売っている服屋の3択だった。
塾はスパルタだった。現役大学生が教えており、彼らはエリートの自負があって、結構偉そうにしていたが、熱心だった。今思えば、もっと色々聞けばよかったと思う。ただ、私は不純な動機で取り組んでいたので、落ちた。
一度その先生から合否を聞く電話があったが、「落ちた」と言ったら、「来年頑張れよ」と言われ、電話は切れた。その人はちょうどその年卒業でTBSに入社したと聞いた。後年、実名検索をすると確かに名前はあったが、ある時からキャリアが更新されずにいる。
懲りずに東京の予備校に通った。けれども、渋谷には入れず、池袋だった。1年間池袋で過ごした。都会にも慣れた。サンシャインシティ近くのビルのゲームセンターで1日過ごした。しかし、また落ちた。でも、南池袋の喫茶店や定食屋なら、1人で入ることができた。
2年目は、単科講座だけ取って、あとは独学することにした。初めて代々木ゼミナールの代々木校舎で授業を受けた。有名講師の授業はえらく混んでいた。ただ、やっと渋谷に近づけた、と満足した1994年のことである。
代々木周りの店は若干まだ鄙びていたので、入りやすかった。でも、各国料理の店が限界だった。アンコールワットという店によく行った。後年、ここの一番高いコースを友人と頼むことになる。
神戸の震災があった時、センター試験直後で、代々木からお茶の水まで単科講座のはしごをしていたので、歩いた。この時、神宮外苑に慣れた。
2浪しても、目当てのところにはいけなかったが、同級生も周りにいなくなって読書する習慣ができた。だから文学部で好きなことやるんだと思っていた。
大学は新宿にも届かない場所にあった。だから、原宿にあった郵便局の仮社屋で、アルバイトを始めた。竹下口から出て、東郷神社を突っ切って、明治通りを左折。今は原宿警察署があるあたりが仮社屋だった。2年間働いた。
とうとう原宿まで来たという満足感があった。でもおしゃれな店には気後れして入れなかった。ただ、その頃徐々に裏原宿と呼ばれることになる神宮前3丁目付近には店が出来始めていて、寂れつつあった竹下通りと対照的だった。1995〜1996年のことである。
ただ、渋谷にはまだ到達していなかった。太っていたことが、おしゃれさんたちの集まる街にいけない心理的な枷になっていた。
けれども、1998年〜1999年、突如としてダイエットを始めた自分は、3キロ痩せるごとに、服を買うことにした。結構太っていたので、落とすごとに散財した。その時にお世話になったのが、西武百貨店、西武のモヴィーダ館、パルコだった。各種セレクトショップにもお世話になった。
ここで、初めて裏原宿をうろつき、ヴィンテージキングで叱られ、エアマックス狩りにも合い、深夜のロータスでおしゃべりしたりして、クラブにも通い、ああ、自分もこういう生活に参加できてる、という時期が続いた。2002年くらいまでだったろうか。毎日ではなく平日は築地で働いてたので、週末くらいのことである。
ただ、合ってはいなかったと思う。
原田宗典さんも色々あったろうが、それはもう仕方がないことだ。
ただ、あの頃のフワフワしたエッセイを読んで、バカみたいな憧れで生きていたバカな自分を思い出した。