本の廃棄を検討する 4
妻に「アンタのこの本が納戸を占拠しているのが諸悪の根源なんだよ!」と叱られたことで、廃棄を検討し始めました。
実際、その通りだと思います。
ちびちびと第4弾、すすめていきます。
礫川全次『サンカと三角寛 消えた漂泊民をめぐる謎』(平凡社新書 2005)
「サンカ」という山の民がいたのかいないのか、色々と議論になっていて、いない方向に話は動いている、ということを知ったのは、この本を読んで「サンカ」にハマった後でした、という著作を読む順序で認識が異なって来ちゃう実例でもある本。
先付けされた方が強かったり、先付けされた方が裏返されるとそっちの方が強かったりと色々あるけれど、まあ、これも捨ててもいいのかもな・・・。それでも、「サンカ」の虚構性を、虚構という現実として記したこの本は、なかなか面白かったけどなあ。
礫川(こいしかわ)ファンだったので、それは青春本なんだけど。読み直すことはないかも。
石原千秋『大学受験のための小説講義』(ちくま新書 2004 第2刷)
共感を入れずに小説作品を読みとくメソッド本。共感を入れずに、小説作品を逐語的に読んでいくというのが好きで、たぶん、購入したんだと思う。いや一時期石原千秋ファンだったからかな。
私のこうした本の買い方は、読書家としてのそれではなくて、推しグッズを買うようなスタイルで購入されたものである。だから読んでなかったりする。だって、推しグッズなんだもん。
買うことに意義があるんだもん。
なので捨てられないのかなあ。
大澤真幸『社会学史』(講談社現代新書 2019)
鈍器的な厚さ。富永健一的社会学史に対して、見田宗介門下としての社会学史。これは、やっぱり一つの記念碑的な著作なので、いろいろあった論者ですが、残しておいた方がいいのかもしれない。
本間三郎『物質の究極は何なのか』(講談社現代新書 1989)
私の中では少な目の自然科学的な新書。自然科学に関してはやっぱり関心があって購入したものなので、残しておいた方がいいんだと思う。
数式なしで、表現されているクオークの説明なんだけど、それはそれで門外漢にはわかりやすい。
ただ自然科学は、解明のスピードが速いので、そういう意味では残しておいても、認識が古いということになってしまうかもしれない。
ペンディング。
稲垣眞美『ワインの常識』(岩波新書 1996 第4刷)
稲垣氏のワイン本は、ちょっと異論が出ていたなあという記憶。岩波新書から出ているので、信頼性は高かったが、それが何か批判されて、ちょっとアレになった、みたいな感じで。
山本博氏と論争になったんじゃなかったか。日本ワインについては山本博には、色々と教わった気持ちがあるし、本も持っているから、山本派の端くれなんだけれども、どうなんだろうね。
ワイン本も収集癖を満たす一つなので、これも、まあ資料の一つで捨てられないかも。
窪田般彌『皇妃ウージェニー 第二帝政の栄光と没落』(白水ブックス 2005)
これは読書感想で紹介したこともある一冊なので、捨てられないのだけれども、こうした歴史的人物の評伝が本当に必要なのかどうか、という点については、どうなんだろう。
まあ、読み物として面白いので、これは小説ジャンルに入れてもいいのかな。
加藤節『南原繁 近代日本と知識人』(岩波新書 1997)
先輩が河合栄次郎の研究をしていて、対比的に南原繁については、よく話題に出た。丸山眞男本の収集をしているときにも、丸山の先輩として位置づいているので、捨てられない。
ただ、南原繁について、さすがにもういいだろうという声も自分の中で響く。南原繁だぞ。誰が覚えているんだ、って。妻にも、これはさすがにいらないだろ、と言われそうだ。
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あんまりこんなのばっかアップすると、呆れられそうなので、今日はもうやめよう。
無限にやっちゃうので。
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