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昭和通りと大正通り ~『乱歩とモダン東京』~

Stable Diffusion 2.1という画像生成AIを無料で、しかも雑に指示してできた画像が、本当に気持ち悪くて、それにハマっている。

シャープでリアルな画像ではなく、まじりあった異形の、普通とは異なる世界の絵が、何とも心地いい。「レトロAi」などと言って、いずれは解像度の低い画像生成ソフトが流行になるのかもしれないけれども、せっせとこの世のものではない画像を生成しては、一人悦に入っている。

見出しの画は、book,words, pappardelle, retro, shockingみたいなプロトコル(雑!)で出した。すごい気持ち悪い異世界のような絵が、無料のしかもバージョン古いものでは出来上がるので、それが好ましい。それでないとつまらない。

藤井淑禎先生の『乱歩とモダン東京』の第三章だけれども、乱歩の「通俗長編」第一作『蜘蛛男』の中に登場する、帝都復興計画によって実現した昭和通りと大正通りについて書かれている。

こうした大都会の交通ルートの変更をトリックに用いるという点、時刻表トリックなどと同じで、技術の進歩の裏を読む推理小説家の面目躍如ではないか、という趣旨が、この章の中心なのだけれど、同時に、昭和通りと大正通りの歴史的記述も忘れない。

この昭和通りと大正通り。昭和通りについては、私は築地で働いていたので、ちょうど、配達のルートにあった。北は4号線に通じ、三ノ輪から上野、秋葉原を通って江戸橋、京橋から東銀座、そして品川まで、都を縦断する昭和通りは、意識して歩いてみたことはなかったが、今度、散歩してみようと思った。

そして、大正通りと呼ばれた通りは、今はないのかもしれない。と思って検索してみたら、その大部分が「靖国通り」になっているということだった。大正デモクラシーが靖国になっている?


いやいや、淑禎先生の引用によると

九段下を起点とし神田区神保町から駿河台下、小川町、須田町を経て、柳原の裏通、岩本町で一号幹線と交叉して浅草橋に出で、両国橋を渡って国技館前から緑町、本所柳原、錦糸掘を一直線に進み、城東電車線路に沿うて亀戸に達する延長六千二百九米、長さは正に一号幹線の二分の一」

『帝都復興史』第二巻

だという。

となると、九段下までが大正通りだったけれど、その先の市ヶ谷と靖国神社に延伸し、川を超えて、新宿の大ガードまでの道と合流、その先は東高円寺くらいまで伸びていく、そういう経緯から、名称としては中間の象徴的な名前になったのかもしれない。

いずれにしても、旧大正通りも、一度歩いてみようと思った。

起点の亀戸には思い出がある。その昔、花王にちょっとした経緯で通っていたときに、総武線亀戸駅で降りて、研究所まで歩いて行ったものだ。友人も、平井とか八広とか、墨田区近辺にみな住んでいたこともあって、詳しいというわけではないけれど、懐かしい記憶とともにある。のちに、酒屋さんのはせがわ酒店の本店に日本ワイン関係で通ったりしたのも、いい思い出だ。また、歩いてみたい。

そんな二つの帝都復興の際に出来た道路を、『蜘蛛男』では、通り名を明記せずにうまく使って、モダン東京のイメージを上手に醸していたという。

さて、「大正通り歩いてみた」「昭和通り歩いてみた」の日記が、いつかできるかな?

大震災から7年後の、感慨深い文章を、淑禎先生、引用している。それはとても良いので、私も引用する。

更に遠く眺むれば大橋図書館を越えて三越、三井信託其他日本橋方面の大建築物が目立つ復興建築の海が展開される。稍左手は駿河台高地の建物、神田一帯の復興の姿晴々と冬の清澄な空気を通して目に映ずる。あゝ思ひ起す七年前、震災直後に此の場所に立ちて満目余すところなき焼野原を眺めた此眼が、七年後同じ場所に復興帝都を展望した時、東京市民の撓みなき努力が偲ばれて、滂沱として降り来る熱涙を禁じ得なかつた。復興の姿を捜す市民よ九段坂の上に立て、然らば涙なくては見られぬ偉大なる人間の努力の跡に接するだろう。


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