「乃木大将と今村大将」/そのかかわりを「今村均回顧録」を中心に その4 昭和14(1939)年初めの南寧戦時、部下の説得
シナ事変における南寧の大激戦
「今村均回顧録」によると、ベトナムからの蒋介石軍への救援物資(俗に援蒋)ルート遮断のための広西省南寧攻略の直後、今村さん率いる第5師団+α2万4千人の実に10倍以上の30万人の蒋介石軍の反撃を受けた戦いが、南寧の大激戦になります。
この戦いは、今村さんにとって、軍司令官として明示的に最初の大きな会戦での勝利でした。
その詳細は、既に下記の記事にしていますのでご覧ください。
昭和14(1939)年初めの南寧戦時の部下の説得でのこと
第五師団の部下の堀毛砲兵連隊長が前線で戦闘中の部下が、砲兵にとって命と言え連隊の軍旗同等の大砲三門を敵に逸したことに責任を感じ、攻勢作戦の前の段階で部下とともに突出し奪回しようと申告にきます。
ですので、堀毛砲兵連隊長はその部隊を率いる責任感から命がけの奪回を申告しに来たのです。
しかし、この時点は、味方援軍が来るまでの戦略待機の時期に当たっています。今村さん第5師団のみで敵攻勢に対するぎりぎりの人員での持久体制を維持しているという状況でした。
そのとき今村さんは師団長として、軍司令官として、堀毛連隊長に対し、まず、堀毛連隊長の責任感の強さ、その気持ちに深い理解を示します。
このときに、その気持ちが西南戦争の時の乃木希典連隊長(西南戦争時)が軍旗を喪失したときと同様でよくわかる、と言うのです。
「今村均回顧録」に書かれている、このときのその後の思いとどまらせる説得も含めた発言について、実に味わい深いので、そのまま引用します。
部下の説得、全文引用
「『貴官の気持はよくわかる。思いつめた決意も有難く思う。私の岳父、千田登文翁は、少尉のとき、西南戦中戦死して、軍旗を賊軍の手中に委した旗手の後任に命令され、乃木歩兵第十四連隊長に申告すると、
『千田少尉! せっかく来てくれたが、おぬしの奉ずる軍旗は、無くなってしまってるぞ・・・・・』
と落涙されたそうです。今の気持は、乃木連隊長の、そのときのようなものだろうと思われる。乃木さんがあのとき、軍旗奪回のため、自身、賊軍中に突入し、又は自決の上で、責任心を示されているのと、永い間武人としての不名誉を耐え忍び、あんなにも人格を修練し、しかもこのときの責任をはっきり記して、後に自刃せられた垂範といずれが尊いものか、私は忍辱の一生を、謹慎のうちに過ごされた将軍が、有難くてしかたがない。
X中隊は、私の命令で、三木連隊長の指揮に入らしめたもの。奮戦して人、馬の半以上を失ない、敵の重砲弾で破壊された三門を埋没し、しかも三木大佐からの命令で、地中のものを、ほりだし得る余裕がなかったことが、そんなにも大きな、不名誉の行動といえようか。むろん敵はこれを動けるように手を加え、”分捕った日本軍の大砲だ”と宣伝はしよう。が、この監督第一の責任者は三木大佐であり、次が師団長。第三が貴官の教育訓練上の責任です。もし私が、貴官の火砲奪回の突撃を認可したとする。君が軍刀をひらめかし、X大尉以下、生きのこっている六十数名をひきい、敵中におどり込む姿を、目にする三木大佐が、唯傍観だけしておられようか。きっと己れの部下連隊をひきいて、いっしょに突撃する。これを目にした、阪田、林、渡辺の三歩兵連隊長は、隣り連隊の一つだけの突撃に終わらせることはしない。きっといっしょに出撃し、遂に師団の決戦になる。
安藤軍司令官は”軍の力で敵を捕捉撃滅する。それ以前の第五師団の決戦は許さん”と示達している。
軍人、とくに指揮官、上級の指揮官になればなるほど忘れてはならない、最高最大の責任と義務とは、勝利を戦いとることにある。このため戦闘経過中のいっさいの出来事は、ただ勝利をつかむか否かで批判さるべきものだ。日露戦争中、万宝山の戦闘で、Y後備旅団が、大砲全部を敵手に委したことを、最大不名誉の象徴として教えられているのは、右旅団が勝利を得ずに、潰走敗退したからであり、もしあの旅団が、勝ち抜いておれば、火砲の紛失は、問題ではなかった筈。軍の決戦は、一か月後です。この作戦は、やっぱりわが師団の戦闘を中軸として行なわれます。この時こそ、本街道を中軸として行動する貴砲兵連隊の活動が、大きく期待される。三門は欠けたが、なお四十五門を有する。この火力の支援で歩兵の突撃は、勇気づけられるものですよ。
貴官の気持はわかる。が、気持の問題になれば、師団全般の広い範囲のことに、気をくばっている私の心のなやみの方が、貴官のものの幾層倍だ。今私には、今村という私人格はない。唯師団長たる公人格のみに、自らをはげましている。私の公人格は、貴官の敵中突入を許しません。
貴官は、決戦時のわが砲兵火力の運用につき、今から十分、地形を偵察し、研究を重ねておいてもらいたい』
堀毛大佐は、深く頭を垂れて熟慮していた。が、遂に、
『ご趣旨はよくわかりました。決戦時の奮闘を誓います。』」
と記されており、この後の決戦時に堀毛砲兵連隊長とX中隊が決死の大活躍により作戦成功の一因をなし、殊勲者部隊として上申された、とも記されています。
乃木さんを尊敬し、その故事に知悉していた今村大将
以上引用した、今村さんの部下への説得の中で、乃木さんのことが効果的にあらわれています。
それは、岳父である千田登文翁から直接乃木さんのことを聞いていたこと、古今の戦訓に通じていたことが上げられますが、なにより乃木さんを心から尊敬していたことが言葉に魂を込めた大きな要因となっています。
私は、この話をとても味わい深く読むのを常とします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?