精読「ジェンダー・トラブル」#045 第1章-6 p66
※ #039 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
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二元的な性的アイデンティティはどのように撹乱されるのかについての、唯物論者とラカン派との比較の続きです。
法の「まえ」というのは前エディプス期における未分化の性欲動、あるいはそれがエディプス期を経た後、無意識からひょっこり現れることを指します。法の「あと」というのは唯物論的な革命のようなものが起こった後を指します。「支配のただなか」というのはそのいずれでもなく、これから述べられます。
フーコーによれば、法の効果でもある権力と、セクシュアリティとは、互いが互いを生み出すような不可分な関係にあります。たとえば、教会における告白という制度(法)が秘すべき性生活という観念(セクシュアリティ)を生み、秘すべき性生活において犯された罪を償う必要が告白という制度を求めます。
権力とセクシュアリティが不可分なのだから、権力と密接な関係にある法についても同様に、セクシュアリティと不可分だと言えそうです。よってフーコーは「法から自由な」セクシュアリティを「暗に反駁している」のだ、とバトラーは言います。法とセクシュアリティが不可分であれば、法の「まえ」や、法の「あと」という、法を外部化した言い回しは成り立たないからです。
「まえ」や「あと」という言い回しが出てくるのは形式上の理由です。「支配権力」という実体を置いた後、それが崩れることを想像するとき、時系列として、崩れるのが「まえ」か「あと」か、と推論されるという理由で、「まえ」や「あと」が生じるように見えるのです。ですがこれは「パフォーマティヴに設定される時間の様態」に過ぎず、そういう時系列が現実にあるわけではありません。
「禁止はつねに予期せずして何かを生みだす」ーーこれが「法の支配のただなか」の答えであり、どのように撹乱されるのかの答えになっています。
フーコーが「主体」というとき、それは権力により〈主体化〉された存在です。たとえば、教会で神父から性生活を根掘り葉掘り質問される信者は、質問されることですっかり性の主体にさせられます。このように主体と権力は不可分のものなので、主体のセクシュアリティは決して権力の「そと」や「まえ」や「あと」に出ることはできないのです。
《父の法》は徹底して男視点によるものでした。だからもし権力が法の「単なる複製とかコピー」であるなら、権力は「男中心のアイデンティティの機構の単一な反復」になるはずです。
しかし、そうはなりません。
罪のない清らかな性生活(法の目的)を教会が望んだばかりに、神父も信者も背徳的な性の欲望に取り憑かれてしまった(権力の作用)ように、往々にして権力は法の「本来の目的から逸れ」てしまいます。
ポイントは、どのように逸れるのかが予期できないことです。したがって誰も望んでいないようなことが起きたり、それが新たな常識となったりすることが起こりうるのです。
「ポスト性器的セクシュアリティ」とは、性器の形状の違いをベースにした男女二元体を革命(?)により打破した先にある、権力から「解放された」セクシュアリティのことで、ウィティッグのような唯物論フェミニズムが該当します。
いっぽうフーコー派の人々は、権力とセクシュアリティを、にわとりと卵のような関係にあると考えます。だからフーコー派にとってウィティッグらの言っていることは、卵のないにわとりなのです。もちろんそんなことはありえない、そんなことでは卵のこともにわとりのことも分からなくなる、と「重大な批判」をするわけです。
(#046 に続きます)