精読「ジェンダー・トラブル」#007 第1章-1 p25
※ #001 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
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「言語や政治の法構造」の語句の切れ目は「〈言語〉や〈政治〉の〈法構造〉」なのか「〈言語〉や〈政治の法構造〉」なのか判別しづらいですが、ここでは前者の意味、法構造が磁場を構築する、ととっておきます。
「権力の磁場」はフーコーの言う権力のことですが、それを「磁場」と呼ぶことでよりイメージが湧きやすくなっています。
磁界の中に点電荷を置いたとき、点電荷は磁界の向きに磁力を得ます。それと同じように、言葉を〈言語の法構造〉あるいは〈政治の法構造〉が作る磁場の中に置くと、言葉は法構造が定める向きに力を得ます。
フーコーの場合、権力を行使する主体というものはいませんでしたが、バトラーの場合は「法構造」が主体のような役割を果たしています。
人はつねにこの磁場の内側にいます。外側に出ることはできません。人は言葉で考えるので、言葉なしには考えることができません。この、自分で考えたりできる人(=主体)のうち、だれが正当で、だれが正当でないかを決めるのは法構造でした。
こうした磁場の中から状況を変えるには、法構造の力を断ち、磁場を打ち消すしかありません。
法構造の力の源泉はその自然さです。法構造が自然化していること(たとえば「女」)を、「批判的に」つまり〈それは本当は自然なことではないのでは〉と、法構造から排除された人に耳を傾けることによって疑いにかけ、「系譜的に」つまりそのいかにも自然に見える表象を可能にしているのはどのような法で、それはどのような政治的理由により制定されたのかを明らかにし、脱自然化することができれば、法構造の力を断つことができます。
できることはそれだけです。法構造の提示する自然さに対し、別の自然さを対抗させても、解決にはなりません。
「アイデンティティを存在論的に構築していくこと」とは、主体が何者であるかを現実に基づいて描き、そうして現実の姿がありありとわかるような主体象を作り出すことです。
そのような主体像には、「女」という表象のような普遍性や統一性はないかもしれません。が、そもそも普遍性や統一性は必要なのでしょうか。
普遍性や統一性を現実に優先させたフェミニズムは失敗に終わりました。「女」という表象が誤っていたからです。
しかし、もし正しい表象を提示できれば、運動の効果は現実の女性に及ぶので、フェミニズムは「表象の政治」において「再生」するのではないでしょうか。
そういうことをフェミニズムの「内部で徹底的に再考する」ことが「必要」だとバトラーは言います。
ある単語の意味は別の単語との関係により定まります。たとえば〈きれい〉は〈きたない〉との関係によって定まるので、〈きれい〉はこういうことだ、と厳密に定めることはできません。手洗い強迫症の人にとっての〈きれい〉と風呂嫌いなおたくにとっての〈きれい〉はずいぶん違うでしょうが、どちらも〈きれい〉です。
「女」の意味も「男」その他の関連語との関係の上に成り立っています。
さて、バトラーは「女」の表象に普遍性や統一性を求めるのがよくないと言っていました。そして、表象は多様な現実を反映した多様なものであるべきだと考えています。
しかし、もし「女」が「首尾一貫した安定した主体」になってしまうと、バトラーの思うような、文脈に応じて様々な表象を表すフレキシブルな「女」は実現できなくなります。
それだけでなく、「女」と「男」その他との関係も「首尾一貫した安定した」ものになってしまい、構造が変えられなくなります。それをバトラーは「物象化」と呼びます。「物象化」とは、紙粘土が固まってしまうように、可塑性がなくなることを言います。
(#008に続きます)