精読「ジェンダー・トラブル」#032 第1章-5 p52
※ #025 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
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ミシェル・アールとはどんな人なのか?とググってみると、男装カフェ・ミシェルのあーるさんしか出てきません。いやぁ、世の中いろんな職業があるもんです。
中立的・客観的に見える〈ひと〉という〈実体〉は、どのような経緯で生まれ、現実にどのような影響を与えるようになり、誰に便益を与え、誰を排除しているのか、といったことを探るのが「系譜学」です。それによって「破壊」される「論理」とは、〈ひと〉を前提とした男女二元論を基盤に据える法や言語の論理であり、バトラー の言葉を借りれば〈実体の形而上学〉のことです。
「すべての心理学上のカテゴリー」は「幻想から派生したもの」だとアールは言います。すなわち、自我や人格までもがパフォーマティヴなものだというのです。これは一見ぶっ飛んだ考えのように感じますが、たとえば何日も真っ暗な密室に閉じ込められていると誰でもおかしくなるという話を思い出せば、自我といえど他人との相互作用なしには維持できないことが分かります。つまりはパフォーマティヴなわけで、バトラーの言っていることはそれほどぶっ飛んではいないのかもしれません。
文法に自覚的な人であれば別ですが、人の脳は自動的に〈主語「われ」を表す実体があるんだろうな〉と思ってしまいます。
「思考が、『われ』のところに到来する」とは、時間的な語順が〈われ→思う〉ではなく〈思う→われ〉だということです。思考の発生が先で、あとから、あくまで文法上の制約により、「われ」という主語が生じるのです。だから〈思うのはわれ〉なのです。
「われ」が「原因」となって「思う」という思考が生じているように見えるのは、文法を疑うことをしない「文法への信仰」のせいです。本当は「われ」などおらず、ただ「思う」があるだけなのです。
したがって「主体、自己、個人」もまた文法の制約上現れているだけの、形式主語〈it〉と変わらない「架空の統一体」です。
しかし「文法への信仰」のせいで、それらが「実体」に見えてしまうのです。
(#033に続きます)