逃避行

ヤマガミサマ、何時も天より其方見けり。
ヤマガミサマ、何時も其方の心中読みにけり。
もし其方、遭難したらば、ヤマガミサマ お救いなるなら、
実に人道通すものなり。
もし其方、遭難したらば、ヤマガミサマ お殺しなりなら、
全く実なさぬものなり。
「山歌の調べ〔加羅 ヤマノ神 伝記集 其之三 〕」より

人としてこれほど生きるのは辛いのか。肉体の中で燃やすべきものは全てなくなった。東の中央に通る道。五月の清々しさなどは一切なく、重たいとよく感じられるような湿気が私の逃げる足を抑える。光は一切目に届かず、深い緑は私の心に問いを繰り返す。その時の返せる返事は腹の音だ。いつ飯を食ったのなんかは野暮だ。先へ、先へと進めど何も変わらない。ああ、もうだめなのか。もうここで終わるのか………。

夏の空にありがちな飛行機雲を眺める。尾の方はぶつりぶつりと切れてしまっているのが、残念でならない。リビングの肌触りの良い感触は純粋に気持ちよく、その証拠に二の腕から手首あたりまで流れる生地の跡がくっきりと残っている。
「起きたの?」ニッコリと笑った彼女。
「…うん。…寝てたみたいだね。」一つ大きなあくびが不意に出る。
「ねえ、お腹すいてない?お昼残ってるけど。」時刻は15:00。今食べても晩飯には支障は出なさそうだ。
「食べたいな。」
「わかった。準備するね。」立つ瞬間に風を押すスカートが印象的だった。

バタン

「なあ…これか?」
「何よ、嫌いだったけ?」
「いや好きだけどよ…これは…なあ…。」無印の机の上にはお釈迦になった冷やし中華が一つ。夏といえばこれ。これといえば夏。アメリカのネバダ州ラスベガス一丁目でで作られてるこれ。これが嫌いなんて言う奴がいるなら、そいつは人生の半分損してると言いたい。でもさすがに伸びきってしまったこいつをうまいとなんて嘘はつけない。しかし、より謎だなって思ってしまうのは彼女がなぜこれを残しといたかだ。食べ物には失礼だが旬を過ぎてしまったこいつを内緒で捨てていても怒りはしない。寝ていたなら、起こしてくれてもいいもんだが。
「…食べないの?」
「うん?ああ、食べるよ!うん、食べる。」
「そう… 。 からし取ってくるね。」
「ああ。お願い。」
これってからしで収まる問題なのか?そんなもやもやはあったが、ここまできていらないと言うのは、食べ物相手には申し訳が立たない。じっと凝視すればするほど、鮮度の落ちたキュウリが目の中に飛び込んできて、食欲を蝕んでくる。からしが机にやってきて、皿の端に気持ち多めにつけておく。重さがよく伝わる。ぐったりとした感じがわかる。

ズルズルズルズル

「…あれ?うまい。」意外だった。
その時彼女の笑みからじゅっと何かが漏れ出した。からしの端くれが水分を吸って、大きくなっていた。

緑の隙間からわずかに漏れる日光が唯一時間を教えてくれる。だいぶ遠くまで来た。手が少し湿り、ズキズキと手首にしみる。俺はなんで逃げてるんだ。遠くへ来てなにをしたいんだ。どこへ逃げたいんだ。もう何もわからない。手を伸ばしても届いているのかも、過ぎているのかも、はたまたそのものがないのかもしれない中を必死に探しているのかも、頭を抱えてもわからずじまいだ。でもなぜか動いてしまう足。こいつは僕の一部じゃないんだ。ただひたすらに走って、先へ行く。先には変わらないでまやかしめいた光が漏れている。

駅のホーム。皆、暖かい家庭に帰りたい一心で、上りエスカレーターへ駆け込む。改札口には何人かたむろしている。僕の駅は駅から少し離れていて、夜道をふらりふらりとしながら歩く。一直線に伸びた足りずじまいの街頭がとてもおセンチで、一種の極楽を感じる。自然と歩みもだんだんと早くなって、鼻歌も出てしまう。今日は月が出ていない。黒い暗幕の下。広いステージの規則的な光。赤いアパートの屋根が見えてきた。その時、
自分の部屋の前で彼女と男の影がふっと映り込む。大きなものが自分の目先に恐怖を与える。二人は軽くスキンシップを図って、そのまま手を振って別れた。嘘のような光景は自分には嘘であって欲しかった。彼女が部屋に入って、何分か立った。僕は無気力な塊になって、黒ずんだ白いドアを叩いて、入った。彼女は、こいつは無知のふりをして大きく鳴いた。

大きな石の上で俺は寝た。まるで死んだように寝たのに、起きられていないらしい。場面は何も変わってない。
ねえここだよ

何が聞こえた。あたりを見てみると、積み石が一つ。とても大きな存在感だった。整った台の上に光が一筋さしている。直感でこいつは俺を救ってくれる。
「たのむ、助けておくれよ。」当然だが返事などなく、無の中に声は消えていった。ああ、馬鹿馬鹿しいわ。こんなことをしたって、今更何が助けてくれだ。都合が良すぎるだろ。少しばかり目が朦朧としてきた。体の端々が空に消えていく。

ある日、あいつに不倫の現場写真をいくつか見せつけた。その時、もっと反省とか恐怖で心乱すものかと思っていたが、こいつは斜に構えていた。悟られてるなんて当たり前で、むしろ俺が悪と言いたげな表情だった。男は昔の男で俺よりも金も、見た目も、中身も、体も、全て優っている。それなのに私はなんでお前と付き合っていなけばいけないのか。当たり前のことでしょ。
言い分はこんなもんだった。こいつの本性に化かされていた俺が愚かだった。馬鹿馬鹿しいのはそのことを知っても、この事実を認められないことだった。もう一度やり直せないか。そういってみる自分が惨めだった。こいつはすんと構えたままだった。そして一言
「あんたなんていらないのよ。」
そこからは一瞬だった。華奢な首に大きな手は巻きついた。口からもれる音は熱く、俺の心はひどく冷め切っていた。窓の光は二つの間違えをやしく照らして、時間を優しくした。抵抗する大きさはだんだんと弱まった。手を離してマットに置かれた全身はくたっとして、照らされていた。風が吹いて、レースのカーテンが幻想的に揺れる。そして吹いた風は波のように引いていく。俺は自分の手に残った爪痕を見てぞくりとした。やばい。そのまま何も持たず、ただ俺は車に乗った。どうすればいいのか。どうすればいいのか。必死になって運転をする俺を後目に、積乱雲はゆっくりと移動していく。

もうだめだ。捕まる。それでも先へと先へと進む。おぼろげな目はその先に見覚えがあるものを見つけた。積み石だった。なんだこれは。その先にも積み石がある。もしかしたら。ただの石に希望を託すことにした。よろけながら、石を頼りに先へと進んだ。なんとかして、なんとかして、その一心で歩みを進めた。だいぶ遠くに開けたような場所が見えた。あっ、助かる。俺はその瞬間、全身に力が込み上げて走り出した。俺はもう生きるんだ。もう死ぬなんてごめんだ。絶対、逃げてやる。あいつのいない世界を生きるんだ。光はだんだんと近ずいてくる。やった。俺は逃げられたんだ。光に手を伸ばす。その瞬間、大きな衝撃とともに空を舞った。天地は大きく変わって、そして元に戻る。全身の力はさっきとは変わって、脱力している。空の雲がやけにゆっくり進んでいく。いい日だなあ…。僕はとても眠くなって、そのまま瞼を閉じた。

「なあ。」
「なんだよ。」
「さっき、トラックにぶつかった動物、イノシシにしちゃあやけにでかくなかったか?」
「そうか?じゃあクマとかじゃねえのか?』
「ここいらにはクマはでないらしいよ。やっぱり見に行った方がいいんじゃないか?」
「大丈夫だって。むしろ奴ら害獣とかで農家に嫌われてるんだろう?構やしねえって。」
「そうか…。」
ブウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ

「おい、江島のとこの娘さん、意識取り戻したらしいぞ!」
「本当か!そいつは良かったな!」
「ああ。ご近所さん、お手柄だな〜。見つけるのがもう少し遅かったらどうなってたか…。」
「で、相手の男は?」
「まだ見つかってないってよ。」
「もう三日だろう、いい加減どっかで見つかってもいいと思うけどな。」
「どっかでのたれ死んでたりとかしてな。」
あははははははははははははっははは
「まさかな!?」
「だよなー。」
わははははははははははははははは

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