2の死
猫っていうのは死ぬ時、主人の前からふらりといなくなってそのまま死ぬという言い伝えがある。この噂は猫が放浪しやすく、その途中で事故や災難にあってしまい死んでしまうというのが大半で、実際はそんなことないのだと思う。しかし私はその噂はあながち嘘なんではないと思う。猫はあまり特定の人との関係に重視せず、関わりを持たず放浪するような性分だ。飼っている間はそんなところが魅力であり、少し困ったりもするところだ。でもこれは猫からすると出来るだけ関係を築くことをしないことで、自分がいなくなってしまった時のショックを減らしている、気遣いをしているのではないかと僕はロマンチックな思想を唱えている。
しかし人間はそうもいかない。人間はとても関係を重要とする生き物だからだ。さらにsnsの普及でその関係がたやすく広く結べるようになった。その関係は一方的であったとしても有名人とも結べるのだと思うと、人類は進歩し続けて来たもんだと思う。しかし、その簡単に結べる管は良いことも悪いことも知ってしまう点は個人的には言葉にもしずらい絶妙なものなんだと感じる。
人の死とはとても唐突である。もちろん自分の知っている人の訃報はいち早く知っておきたい。しかしそれを知ってしまった後には、なぜいましってしまったんだろうと謎に後悔するのはなぜなのか。簡単にいうと今までの流れを大きく変えられてしまう出来事に対しての不満みたいなのが上層的な部分からわかる原因だろう。でも本当はその人に対しての様々な感情が渦巻いているからなのだろう。これは実に一般論で普通のことだ。しかしその一般論の中には実に複雑で、その枠だけで言い切れるような物ではないと思う。その人がこの先何をやっていくか見たかった。その人との約束がまだ守られてない。一度の過ちをまだ清算できてない。この人との関係をまだこんな形で終わらせたくない。…本当に色々あるんだろう。でもそのひとを助けてやることも、戻すこともできないのだという現実が、たらればをますます非現実的にさせていくのだ。そして体に無力感が走る。人の死とはどんなにわかっていても辛いものだ…。
猫は死ぬ時にいなくなって、気づかないようになっていく。でも人はわかるように死んで、それを自分が認識する。前者の方が何もないからいいのかとも思う。でも人はその目の前
で死んでいくことでその人に足しての感情を再確認して再び生きていく。それは普通だとしても、大きな力の一つでとても重要なことなんだろう。
しっかりと踏みしめてまた歩いていく。そんなこと思う時代の変わり目。