大晦日、蟹を食う。
汚れた鏡に映る寝癖のままボサボサの頭、昨日食べたコンビニ弁当の袋、ゴミ箱代わりに使っていたティッシュ箱いっぱいに詰まった電子タバコの吸い殻、開封していないまま机に放り投げられた封筒の山、電池が切れたまま放ったらかしにしている卓上時計。
上京する時「困ったら使いなさい」と言われて母に渡された10万円入りの茶封筒、「お前のおかげで仕事が楽しくなった」と書かれた元同僚からの手紙、上京してまもない頃に奮発して買ったメイプル色したフェンダーのテレキャスター。
埃、飲みかけの缶コーヒー、1ページだけ書いた日記帳、埃、栄養ドリンクの空き瓶たち。
書くって約束しちゃったしな……とパソコンの前に座ったが、改めて自分の部屋を見回すと、憂鬱な気分になった。気を紛らわすため、机に立てかけていたフェンダーを手に取る。最後に弾いたのがいつかも覚えていないくらい久しぶりだ。チューニングせずに弾いたから正しくコードを抑えても間抜けな音が鳴る。気にせず弾き続けたけど、気持ち悪くなってやめた。頭で考えている音と、実際になる音が違いすぎて、全然楽しくなかった。当たり前か。
スマホのバイブが鳴った。通知を見ると母からのメッセージだ。
「帰ってきてくれてありがとう」
*****
今年の年末年始は実家へ帰る予定ではなかった。上京して1年目の去年は、まだ遠距離で付き合っていた彼女がいたから、彼女に会うために帰り、ついでに家族にも会っていたが今年は帰る理由がなくなった。家族に会いたくないわけではないが、年末年始は飛行機の料金も高いし、駅も混雑しているし、少し時期をずらして帰ろうと思っていた。でも、年末に母方のばあちゃんが亡くなり、葬式に参列するために急遽帰省することにした。
家族葬ということもあり、少人数で葬式は行われた。式の最中、親族を代表して僕の姉が手紙を読んだ。姉とばあちゃんは仲が良く、よくご飯に行ったり、頻繁に連絡を取り合っていたらしい。姉が手紙を読んでいる最中、涙を流す親族を見て、僕も泣きそうになったけど歯を食いしばって堪えた。涙が引っ込んだあと、「なんで涙を堪えたんだろう?」と必死で堪えた自分を不思議に思った。ふと、隣に座っている父を見る。全然泣いていない。
ーーそうだ。「人前では涙なんか流すもんじゃない」と父に言われて育ったんだった。「男なら、人前で泣くな」と。小学生の頃、野球の試合で負けた後、父が運転する車の助手席で唇を震わせる僕に「泣くな!」と言われていたことを思い出す。
31歳にもなった今でも父からの言いつけを律儀に守ろうとしているわけでもないし、未だに人前で涙を流さないことを父のせいにしたいわけでもない。
ただ、大粒の涙を流し、ティッシュで鼻を啜り、肩を抱き合いながら泣いている親族を見て、あんなストレートに感情を出すって気持ち良いだろうなあと羨ましくなった。同時に、泣きじゃくっている親族の中で涙をポツリとも流さない父が頼もしく見えた。
無事に葬式を終え、僕は父が運転する車で母と共に実家に帰ることになった。
実家までの道中、気まづい空気が車中に流れる。父は、僕の上京を断固反対していて、きっと未だに良く思っていない。「早く着いてくれ」と思いながら、眠ったフリをする。
あと10分くらいで実家に着こうとしているタイミングだった。
「蟹、食うか?」
なんのことかと思い、父の方を見ると口を半開きにしながらこちらを見ている。僕の返事を待っているようだった。
「蟹、食うやろ?」
もう1度聞いてきた。
「うん、食べる」
僕が答えると父はそれ以上何も言わず、表情も変えなかった。車は、家の近所のスーパーに入る。
「待っとけ」
僕と母を車に取り残し、父は颯爽とスーパーへ進んで行った。
僕が高校を卒業して家を出るまで、我が家の大晦日は家族全員で蟹を食べることが恒例だった。小さな頃はローストビーフやフライドチキンだったりもしたが、中学生くらいからは蟹一択だった。僕はタラバ、父はズワイ。姉と母は、どの蟹が好みだったか覚えていない。普段はめったに買い物も料理もしない父が、自ら買い出しに行き料理する。料理といっても茹でるだけだけど、毎年、父の茹でた蟹を食べるのが楽しみだった。
思い出に浸っているうちに、父が大きな袋を持って車に戻ってきた。車に乗り込むやいなや、おおきな袋を僕に渡してきた。中を覗くと、タラバ蟹とズワイ蟹が入っている。
10年以上ぶりに実家で食べる蟹は、格別に美味しかった。もちろん味も好きだけど、食べている最中、蟹に集中して余計な会話をしなくて済むところが好きだ。上京を機に父と僕の間にできた溝は、時間と共に少しづつ縮まっている気もするが、まだ距離は遠く感じる。東京での仕事や生活のこと、本当は気になっているくせに頑なに聞こうとしないところが、らしいなとも思う。本当は酒を酌み交わしながら話したいことは山ほどある。でも今はまだ、早い気がした。何も上手く行っていない現状を話したところで、父は喜ばないだろう。嘘をついて安心させるのは簡単だけど、それは違う気がした。
蟹を食べ終わり、僕たちは別々の部屋でそれぞれの時間を過ごした。
翌朝、帰り支度が終わり家を出ようとする僕の元へ父が来た。玄関で靴紐を結んでいた僕は父に気付き、振り返る。
「頑張ってこい」
僕は、緩みそうになった顔をグッと堪えながら靴紐に視線を移し、
「分かった」
と答えた。
まだ、今はこれでいい。
*****
母に「無事に帰った」という旨を連絡したら、すぐに「お父さんも喜んどったよ!」と返信が来た。それを見た僕は、一応、念のため、父にも連絡しておくかと思い、「無事帰りついた! カニ、美味しかった!」とメッセージした。
フェンダーをもう1度手に取り、今度はちゃんとチューニングして弾いてみた。最高に気持ち良い。気持ちよく弾いていたら、次は部屋の汚さが気になってしょうがない。
少し遅くなったけど、明日は大掃除しよう。
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