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諺に踊らされる

井の中の蛙、大海を知らず

どちらかというと、悪い意味で使われることが多いような気がする。

「あいつは井の中の蛙だわ」みたいに、その人の見ている世界、視野が狭いことを伝えたい時によく聞く。

例えば、パワハラのように節操もなく怒鳴り散らかしている人。世界という広い単位でみるとその人はちっぽけな塵のような存在なのに、いかにも「俺が1番偉いんだ」という振る舞いに見える。その人の置かれた立場は肩書き上、偉いのかもしれない。しかし、その人のいる組織は世界という「大海」から見れば、所詮ちっぽけな「井」に過ぎない。

仮に、その人が世界の広さを知ると同時に自分のちっぽけさを知ったら、自分の振る舞いを恥じるのだろうか。「やべ、俺って本当はすごいちっぽけな存在なのに随分と偉そうなこと言ってたな……ごめんね!」なんて。

んー、そうは思えない。きっと「俺は俺」的なスタンスで、これまでと変わらないだろう。だって、世界がいかに広いかなんて本当はみんな分かってるはずだ。パワハラする人はもれなく「井の中の蛙」なのだとしたら、いまだに無くならないのは、皆、「大海を知らず」ではなく「大海を知るが、見ず」だからなのかもしれない。自己啓発本を読み漁っても、実行しなければ何の意味もないのとよく似ている。

パワハラ的文脈以外にも、聞く時がある。その人の実力がまだまだであることを語るときだ。

小学校のクラスの中でずば抜けて野球部が上手い蛙君(仮名)がいたとする。そのクラスの中では誰も彼の球を打てないし、誰も彼を抑える事はできない。そのうち蛙君は持て囃される「お前余裕でプロ行けるっしょ!」「勉強なんてしなくていいから野球だけやっときなよ!」と。蛙君は「おれ、プロ行くわ」と、その気になっていく。

蛙君は中学生になり、当然野球部に入る。その中学校の野球部は、その地域でも有名な強豪だ。蛙君は小学校時代の気持ちのまま練習に参加する。隣町の小学校から来たトカゲ君の見たこともない球に圧倒され、バッターボックスに立った蛙君は手も出ない。気を取り直してマウンドに立って、これまた隣町のヤモリ君に全力投球するも、ピンポン球のようにレフトスタンドへ運ばれる。

この時、蛙君はようやく大海を知る。

さて、ここからが分岐点だ。大海を知った上で野球を続けるのか、それとも勉強に励むのか。蛙君は何を基準決めるのだろう。それはきっと「好き」もしくは「1番になりたい」のどちらかではないだろうか。野球が好きだから、1番にはなれなくても1番になる努力を続ける人生。野球でなくても、何か自分の得意な分野を見つけて、そこで1番を目指す人生。もちろん「何もしない」という選択肢だってある。中には、強制的に野球を続けさせられる人もいるかもしれない。話は飛ぶが、星飛雄馬は稀有な存在だ。「好き」と「強制」のハイブリッドタイプだから。

星飛雄馬は置いといて、トカゲ君もヤモリ君も中学ではトップだったとしても、高校に行けば蛙君と同じ目に遭う可能性はある。俗に言う、上には上がいるというやつだ。

では、上の上を突き詰めたらどうなるんだろう。大谷翔平に聞いても「自分なんて、まだまだですよ」と言うに違いない。イチローだってベーブ・ルースだって同じような気がする。彼らはみんな野球が「好き」なんだろう。心の底から。

蛙君が野球を続ける人生を選んだとする。毎日ランニングして素振りして、野球関連の本を読んで研究に励む。そのうち「俺って結構頑張ってるよな、遊びにも行かずに」と思うようになって少しずつサボり始める。けど、大谷もイチローも当たり前のようにやってる。だって、それが好きだから。息するようにランニング、歯磨くように素振り。息抜きに野球の本を読む。そして気づいたら、メジャーという大海の殿堂入りを果たしている。

彼らは皆、選ばれし精鋭ではない。自ら望んで大海に飛び出している。元はといえば、井の中の蛙ということには変わりないのだ。蛙君と同じような分岐点を屁とも思わず、乗り越えてきた人だ。いや、乗り越えたと言う感覚すらないのかもしれない。

ところで蛙君たちは今どうしてるんだろう。どこかでパワハラしてないといいけど……。

しかし、どうやら「井の中の蛙、大海を知らず」という諺には続きがあるらしい。

「井の中の蛙、大海を知らず、されど空の蒼さを知る」

……………………。

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