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「大衆の反逆」オルテガ・イ・ガセット

半分も読んでいないが、結構好きな本だったので、印象深い言葉たちを引用してここに置いておく。

祖父母に劣れる父母
さらに劣れるわれらを生めり、
われら遠からずして
より劣悪なる子孫を儲けん。(頌歌第三の六)
Aetas parentum peior avis tulit
nos nequiores, mox daturos
progeniem vitiosorem

(p38)

ところが、われわれは、そうした申し分なく充溢した自己満足の時代は、内面的に死んだ時代であることに気づくのである。真の生の充実は、満足や達成や到着にあるのではない。セルバンテスは、かの昔に「宿屋よりも道中の方がよい」といっている。自己の願望、自己の理想を満足させた時代というものは、もはやそれ以上は何も望まないものであり、その願望の泉は涸れ果ててしまっている。要するに、かのすばらしき頂点というものは、実は終末に他ならないのである。

(p42)

われわれの生というこの奇妙きわまりない事実は、つねに自己の前にいくつかの出口を見出すという基本的な条件をもっているのであり、それら出口は複数であるがゆえに、われわれはそのうちの一つを決断選択せねばならないという可能性としても正確を帯びるのである。われわれが生きている、ということは、われわれが特定の可能性のある領域内にいる、というに等しい。このわれわれをとり巻く周囲は普通「環境」と呼ばれている。生とはすべて、「環境」つまり世界の中に自己を見出すことである。

(p55)

つまり、私の主張はこうである。十九世紀が生のいくつかの側面に与えた組織的完全さそのものが、その受益者たる大衆が、それを組織とは考えず自然物とみなしている原因なのである。かくして、それら大衆が自ら暴露している彼らの不合理な心理状態が明確になる。つまり、彼らの最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていないのである。彼らは、文明の利点の中に、非常な努力と最新の注意をもってして初めて維持しうる奇跡的な発明と構築とを見てとらないのだから、自分たちの役割は、それらを、あたかも生得的な権利ででもあるかのごとく、断乎として要求することにのみあると信じるのである。

(p82)

賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを胆に銘じている。だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのであり、そしてその努力にこそ英知があるのである。これに反して愚者は、自分を疑うということをしない。つまり自分はきわめて分別に富んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。

(p98)

有志で始まった古典読書会もvol.9になった。
なお、今までのラインナップは以下

  1. 「贈与論」マルセル・モース

  2. 「三酔人経綸問答」中江兆民

  3. 「論語」

  4. 「人生の短さについて」セネカ

  5. 「リヴァイアサン」ホッブズ

  6. 「国富論」アダム・スミス

  7. 「はてしない物語」ミヒャエル・エンデ

  8. 「プロタゴラス」プラトン

  9. 「大衆の反逆」オルテガ・イ・ガセット

次回はフランクルの「夜と霧」です。

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